2020-02-01から1ヶ月間の記事一覧

年間第28主日・A年(1996.10.6)【マタイ22:1-4】

ふさわしくこたえる 呼びかける神 「婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」 王が素晴らしい婚宴を催して招くように、神は絶えず豊かな救いの恵みに与るために呼んでおられるのではないか。それに答えず無視したりいろいろな口実を考え、…

年間第27主日・A年(1996.9.29)【マタイ21:33-43】

ふさわしい実を結ぶ イエスを殺した民 「ぶどう園と農夫」のたとえにより、預言者たちの言葉を受け入れないだけでなく、最終的には神の愛するひとり子までも殺してしまうイスラエルの罪が暴かれる。主人が送ったしもべたちを袋叩きにしたり、殺したりしたと…

年間第26主日・A年(1996.9.15)【マタイ21:28-32】

柔軟に考え直す心 み旨の実現を願う 「今日。ぶどう園へ行って働きなさい」 父なる神は、毎日一人ひとりに、その日に何をすべきか、呼びかけておられるはずだ。 しかし実際には神の御声を聞かずに、自分の思いや考えで決定し、行動してはいないか。自分が働…

年間第25主日・A年(1996.9.15)【マタイ20:1-16】

神のぶどう園で働く 私たちはこの世に生を受けた限り、神からそれぞれ使命を例外なくいただいているのではないか。 「あなたたちもぶどう園へ行きなさい」と父なる神は一人ひとりを招いておられるはずだ。だから自分の考えや願望や計画ではなく、あくまでも…

年間第24主日・A年(1996.9.8)【マタイ18:21-35】

兄弟を心からゆるす 無条件・無制限に 信仰によって結ばれ、兄弟となった相手を、全面的にゆるすように主が命じられる。相手が悔い改めるならとか何回までならなどと、条件や制限をいっさいつけてはいけないのだ。 「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさ…

年間第23主日・A年(1996.9.1)【マタイ18:15-20】

主に育てられる共同体 兄弟的交わり 「あなた方の師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタイ23:8) 主によって私たちは皆兄弟になった。信仰共同体はキリストを中心とした家族なのだ。 「私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ…

年間第22主日・A年(1996.8.25)【マタイ16:21-27】

自分を捨て、主に従う 主の十字架の道 主は受難、十字架上の死と復活が御父によって決定されているご自分の歩まれる道であることを弟子たちに予告なさる。当時のユダヤ人そして弟子たちにとっても、全く受け入れがたい救い主の姿である。自分たちをローマ帝…

年間第21主日・A年(1996.8.18)【マタイ16:13-20】

信仰・共同体が育てられる イエスはだれなのか 私にとってイエスとはどのようなお方なのか。日々の生活において、自分の生き方や人生体験の中で、はたしてイエスに実際にお会いしているだろうか。主ご自身があらためて問われる。「あなた方は私を何者だと言…

年間第20主日・A年(1996.8.11)【マタイ15:21-28】

ご計画の変更を願う熱意 あわれんでください じぶんがどれほど神の助けを必要としている哀れな者であるか、この自覚こそが大切である。カナンの女がイエスと会えたのは苦しみの最中だった。ことが順調に運んでいる時や自分の力で物事を解決できると思い込ん…

年間第19主日・A年(1996.8.4)【マタイ14:22-339】

苦難のあらしを乗り切る 苦悩の中の主 「逆風のために波に悩まされていた」弟子たちのところに、主が来てくださった。 マタイの共同体が迫害の嵐に見舞われていたので、どうしても主の助けが必要だった。 私たちも苦悩の最中に主にお会いできるのだろうか。…

年間第18主日・A年(1996.7.28)【マタイ14:13-21】

裂かれるパン・イエス 深くあわれむ 「大勢の群衆を見て深くあわれみ、その中の病人を癒やされた」 イエスを行動に駆り立てるのはあわれみである。それは内蔵で感じるような強烈な思いなので、かならず結果を生み出す。この神のあわれみの実現こそが、神の国…

年間第17主日・A年(1996.7.21)【マタイ13:44-52】

天の国を見つける 隠されている支配 「なによりまず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33) 私たちの人生は神の愛といつくしみの支配の完成のために生きるよう、一回限り与えられている。全面的に父なる神に信頼して日々み旨と神の義が実現されるため…

年間第16主日・A年(1996.7.14)【マタイ13:24-43】

天国の完成を待ち望む 神のあわれみと忍耐 「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」 今は裁きの時ではなくまさにあわれみの時である。だから神は悪を即座に滅ぼすことはなさらない。神がなさる業のテンポは私たちの時間感覚では悟り得ない。 「…

年間第15主日・A年(1996.7.7)【マタイ13;1-23】

豊かな実を結ぶ 聞いているから幸い 信仰の恵みのよって、神のみ業の神秘を悟らせていただける。 「あなた方の目は見ているから幸いだ」 多くの預言者や正しい人たちですら、見ること聞くことができなかったものを、見たり聞いたりできる幸せは何か。 まずひ…

年間第14主日・A年(1996.6.30)【マタイ11:25-30】

へりくだる者の幸せ 主が喜び賛美する イエスの御父を賛美する祈りは、救いの神秘を教えてくださる。同時に主が何を喜ばれるかをも示していただける。(ルカ10:21参照) 神のみ業は幼子のように自分を低くする者に示されることを、主はほめたたえておられる…

年間第13主日・A年(1996.6.23)【マタイ10:37-42】

主に選ばれた私たち ふさわしい弟子となる 最初の弟子たちは自分たちの方から主の弟子にしてくださいと名乗らなかった。 主が彼らをご覧になって、わたしについて来なさいと一方的にお選びになったのだ。(マルコ1:16-20参照)だからイエスははっきりと言わ…

年間第12主日・A年(1996.6.16)【マタイ10:26-33】

恐れずにみ言葉を語れ 迫害を恐れるな マタイの共同体もすでにユダヤ人から迫害を受けていたので「恐れてはならない」という主の励ましを必要としていたのだろう。神の業はかならず明らかにされていくので、たとえ神に逆らう勢力のさまざまな反対や妨害があ…

年間第11主日・A年(1996.6.9)【マタイ9:36-10.8】

収穫は多いが働き手が少ない あわれみの連帯 「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深くあわれまれた」旧約から人は羊にたとえられてきたが、神が羊飼いとして養い守り育ててくださるのだ(エゼキエル34:11-22参照) 今…

キリストの聖体・A年(1996.6.9)【ヨハネ6:51-58】

天からくだってきた生きたパン み言葉を食べる 「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ことを学んだのが、40年間の荒野でも信仰の旅だった。だから、み言葉は聴くだけでなく、しっかり食べて自分の血とし肉としなければならない。 …

三位一体の主日(年間第10週)・A年(1996.6.2)

神の愛は世界を救う 【ヨハネ3:16-18】 愛するひとり子 愛するひとり子イサクを捧げるように、神はアブラハムに要求された。(創世記22:1-14参照) その同じ神が、私たちを救うために、尊いひとり子イエスをくださった。これほどまでの神の愛を、実感とし…

聖霊降臨の主日・A年(1996.5.26)【ヨハネ20:19-23】

聖霊を受けなさい 多様性の一致 「罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼」(マルコ20:19-23)が、洗礼者ヨハネから授けられていた。しかし彼よりはるかに優れたお方イエスが授けてくださるのは、聖霊と火による洗礼である(ルカ3:16)すでに旧約で預…

主の昇天(復活節第7週)・A年(1996.5.19)【マタイ28:16-20】

なぜ天を見上げているのか 疑いと不信仰 イエスにお会いし、ひれ伏して拝みながらも、弟子たちの心には疑いがなくならなかった。だから主は彼らの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからであ…

復活節第6主日・A年(1996.5.12)【ヨハネ14:15-21】

別れは会うの始め 一緒にいる 真の出会いには別れはないはずだ。 主との出会いが本物ならば、別離がもう一つの出会いを生み出すのだ。 「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」 弟子たちと別れるに際して、主は「世に…

復活節第5主日・A年(1996.5.5)【ヨハネ14:1-12】

御父をお示しください 私は道である 「私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」 父なる神に至る唯一の道が、イエス・キリストであると頭で理解するだけでは足りない。日々主に忠実に従っていなければならない。主のお言葉に聞き従うならば、…

復活節第4主日・A年(1996.4.28)【ヨハネ10:1-10】

命を豊かに受けるために イエスの声を聞く 羊が自分の羊飼いの声を聞き分けるように、私たちも良い羊飼いであるイエスの声を聞けるのだろうか。 「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者には決してついていかず、逃げ去る」 イエスの声を…

復活節第3主日・A年(1996.4.21)ルカ24:13.35】

主は生きておられる 目がさえぎられる 復活の主にお会いする体験には、神ご自身の介入があるのではないか。 「二人の目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」 このことが、もしイエスであることに気づかないように神によって妨げられていたとい…

復活節第2主日・A年(1996.4.14)【ヨハネ20:19-31】

シャローム(平和)派遣、ゆるし 恐れからの解放 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にかぎをかけていた」 きっと心の扉をもかたく閉ざしていたと思われる弟子たちが、復活の主にお会いできた。 復活の恵みは、人の目を気にしたり、世間や…

復活の主日・A年(1996.4.7)【ヨハネ20:1-9】

見て、信じだ 空(から)の墓から 弟子たちが見たのは、イエスのご遺体がない空(から)の墓の亜麻布だけだったので、大変動揺していた(ルカ24:12参照) つまり肉眼で見ることの次元にまだとどまっていたのだ。復活のイエスにお会いするためには、どうして…

受難の主日(枝の主日)・A年(1996.3.31)

十字架の死に至るまで従順でした 無抵抗の従順(マタイ27:11-54) 主の受難のドラマは、あらゆる侮辱、ののしりやあざけり、しかも暴力に対して一切抵抗しない姿で展開される。 既に第2イザヤも「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまか…