復活の主日・A年(1996.4.7)【ヨハネ20:1-9】

見て、信じだ

 

空(から)の墓から

 弟子たちが見たのは、イエスのご遺体がない空(から)の墓の亜麻布だけだったので、大変動揺していた(ルカ24:12参照)

 つまり肉眼で見ることの次元にまだとどまっていたのだ。復活のイエスにお会いするためには、どうしてもこの次元を超えなければならなかった。

 パウロははっきりと勧めてくれる。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心をひかれないようにしなさい」(コロサイ3:1-2)

 しかし、いまだに人間的思いやこの世的考えに縛られているなら、復活の主にお会いすることは難しい。弟子たちですら、自分たちの考えによって目が遮られていたので、道すがら共に歩んでくださったのが、まぎれもなく主ご自身であったとか気づかなかった(ルカ24:15-16)

 

死から命へ過ぎ越す

 そもそも信仰を生きるとは、どのような生き方なのか。

 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から「復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)

 まさに信仰の命は、主の復活の命を生きることにほかならないのだ。それは古い自分すなわち罪に死んで、新しい命つまり神のために生きる生き方に日々過ぎ越すことなのだ。

「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は生きている人たちがもはや自分自身のために生きるのではなく自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。(2コリント5:15)

 

見て、信じる

「もう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた」

 復活の主を見るのは、まさしく<信仰の目にほかならない。つまり死から命へと移る復活体験は、現実を全く新しい見方で受け止めることができるように、根本的に変えられることなのだ。たとえば避けることのできない自分の苦しみをも新しい視点で見られるようになる体験である。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。いつか滅びへの奴属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。わたしたちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8:18.21.24.25)

 このように私たちの人生は、主の復活の恵みによって日々新しくされる。

 だから年を取ること、病気になること、苦しみに遭遇することなど、一つひとつの避けることのできない現実、さらに死をも全く新しいとらえかたができるように過ぎ越していくのが、復活体験なのだ。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。