四旬節第5主日・B年(24.3.17)

「新しい契約を結ぶ日が来る」

わたしの律法を彼らの胸の中に授け 彼らの心にそれを記す(エレミヤ31:33b参照)

 早速、今日の第一朗読ですが、紀元前7世紀から6世紀にかけてユダ王国で活躍した預言者エレミヤの「新しい契約」にまつわるメッセージにほかなりません。

 時(とき)は、ユダ王国が、近東(きんとう)の北はアッシリヤ、南はエジプトに挟まれ、ついには、戦勝国の首都(しゅと)バビロンへ、強制移住させられるというユダ王国にとってその歴史の最も悲劇的な体験をした激動(げきどう)の時代にほかなりません。

 ですから、エレミヤ自身も、国内での騒乱の最中(さなか)様々(さまざま)な迫害をも受けなければならなかったというのです。

 しかしながら、いつくしみふかい神が、ご自分の宝の民であるユダ王国と、なんと「新しい契約」を結ばれると、次のように宣言なさいます。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。

 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに、結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは、この契約を破った・・・しかし、来(きた)るべき日に、わたしが結ぶ契約はこれである。・・・すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記(しる)す。」と。

 まず、ここで言われている「契約」ですが、神と人との間に結ばれた重大(じゅうだい)な約束と言えましょう。ですから、最初の契約は、神が、地球規模の大洪水の後(あと)、ノアと結んだ次のような虹(にじ)の契約にほかなりません。

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代(よ)よとこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。・・・わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約を心に留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない(創世記9:12b-15)。」と。

 さらに、今日の個所で言われている「かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」とは、エジプトを奇跡的に脱出し、紅海を渡り、シナイ半島の南端(なんたん)にあるシナイ山で結んだ十戒が、岩に刻まれたようなものではなく、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」というのです。

 ちなみに、パウロは、石の板に書かれたシナイ契約と、「胸の中」に、つまり神の霊によって書かれた「新しい契約」を、比較させています。

 ですから、シナイ山で結ばれた契約つまり十戒の道徳的な掟(おきて)は破棄(はき)されませんが、この契約を破ったイスラエルの民の罪は、確かに赦されるというのです。しかも、この「新しい契約」を特徴づけるのは、神の御意志(ごいし)についての神から与えられた内(うち)なる知識と、なによりもそれを実行する能力にほかなりません。

 ですから、「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』といって教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。・・・わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」というのです。

 ところで、ここで言われている「小さい者も大きい者も」ですが、「身分の低い者から高い者にいたるまで」とも、訳すことができます。

 ちなみに、今日の個所で言われている「新しい契約」ですが、なんと、最後の晩餐(ばんさん)の席上(せきじょう)、イエスが、ミサを制定(せいてい)なさったとき、つまり「食事の後で、杯(さかずき)も同じようにして、『この杯(さかずき)は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度(たび)に、わたしの記念として行いなさい』と言われました(一コリント11:25)。」と。

 

わたしは地上から上げられるとき すべての人を自分のもとへ引き寄せよう(ヨハネ12:32参照)

 続いて、今日の福音ですが、ヨハネが語るイエスが、初めてエルサレムで異邦人のギリシャ人を前にして、ご自分の最期(さいご)について、いとも荘厳(そうごん)に語られる場面にほかなりません。

「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに登(のぼ)って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンドレに話し、アンドレとフィリポは行って、イエスに話した。」と。

 ここで言われている「ギリシャ人」ですが、なんと異邦人(いほうじん)でありながら、恐らくユダヤ教に関心(かんしん)があり「神を畏(おそ)れる人々」と言われていた人たちではないでしょうか。

 ですから、直接、イエスにお会いするのをはばかって、まず、弟子のフィリポに「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」と、頼み、フィリポは、早速(さっそく)、アンドレに話し、三人でイエスのもとにやって来て、その旨(むね)を話したというのです。

 ですから、イエスは、開口一番、「人の子が栄光を受ける時が来た。アーメン、アーメンわたしは、宣言する。一粒(ひとつぶ)の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒(ひとつぶ)のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と。

 まず、ここで言われている「栄光」ですが、あくまでも神に関する言葉であり、終末(しゅうまつ)つまり救いの完成の暁(あかつき)に、神が神であられることが分かり、なんと神の御姿(おすがた)が栄光の輝きに満ちることを、表しています。

 さらに、「一粒(ひとつぶ)の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒(ひとつぶ)のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」というくだりですが、農業を営(いとな)み、特に小麦の栽培(さいばい)をしていたパレスチナ地方においては、この譬(たと)えはピンと来たことでしょう。

 とにかく、ここでは、イエスが十字架上で死ぬことによって多くの人々に永遠(えいえん)の命(いのち)を与えられることが象徴(しょうちょう)されていると言えましょう。

 ですから、そのイエスに倣(なら)って、わたしたちも、また自分の命(いのち)を捧げてイエスを信じ、愛し抜くということを選ばなければ、結局、永遠の命を生きることができないというのです。

 さらに、イエスは、ご自分の切なる思いを、次のようにいとも大胆(だいたん)にさらけ出されます。

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください。』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名(みな)の栄光を現してください。』すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」と。そこで、イエスは応えて重大な宣言をなさいます。

「わたしはこの地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と。つまり、十字架に上げられることと、天に上げられることを、垂直(すいちょく)に描き、まさに、一つの出来事として受け止めておられることにほかなりません。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240317.html