復活の主日・B年(24.3.31)

「見て、信じた」

神はイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました(使徒言行禄10:40参照)

 

 早速、今日の第一朗読ですが、福音史家ルカが編集したとされる使徒言行録によるイエスの復活に至るまでの宣教活動の報告にほかなりません。

 初めに、使徒ペトロがユダヤ人以外の群衆に向かって、まずイエスの公生活の開始を、次のように宣(の)べ伝えています。

「ヨハネが洗礼を宣(の)べ伝えた後(のち)に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者(メシア)となさいました。イエスは、方々(ほうぼう)を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」と。

 ところで、福音史家マルコは、イエスの宣教活動の開始を、次のように簡潔に報告しています。

「さて、ヨハネが獄(ごく)に引き渡された後(のち)、イエスはガリラヤにやって来た。そして神の福音を宣(の)べ伝えて、『この時は満ちた、そして神の国は近づいた。回心せよ、そして福音に信頼せよ(マルコ1:14-15)。』」と。

 実に、パウロは、「神は、聖霊と力によってこの方を、油注がれた者(メシア)となさいました。」と、父なる神の働きに念を押しています。

 さらに、続けてイエスの宣教活動を、次のように説明しています。

「イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」と。この実例として、マルコは、イエスが悪霊(あくれい)に取りつかれた男を癒された奇跡を、次のように報告しています。

「そのとき、この会堂に汚れた霊にとりつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれん起こさせ、大声をあげて出ていった(同上1:23-26)。」と。

 続いて、ルカは、イエスの最期(さいご)を、次のように伝えています。

「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」と。

 続いて、使徒たち、つまり教会に与えられた使命を、次のように強調(きょうちょう)しています。

「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣(の)べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」と。

 ここで、言われている「御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者である」と言うくだりですが、ミサで唱える信仰宣言では「生者と死者を裁くために来られます。」と、なっていますが、人の子であるメシアには、世の終わりに、すべての人々を裁く使命があるというのです。

 そして、信仰宣言で唱える「生者」とは、キリストの再臨(さいりん)のときに生存(せいぞん)している者をさし、「死者」とは、死からよみがえる者をさしています。

 とにかく、「民に宣(の)べ伝え、力強く証しする」のは、すべてのキリスト者に委ねられた使命(しめい)にほかなりません。つまり、洗礼(せんれい)と堅信(けんしん)を受けることによってまさに福音宣教に派遣されているので、ミサの終わりに司祭は、信徒の皆さんを「行きましょう。福音を告げ知らせるために。」と派遣するのです。

 

それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた(ヨハネ20:8参照)

 次に、今日の福音ですが、福音史家ヨハネが報告する「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」の復活体験にほかなりません。

 まず、最初に日時(にちじ)の確認から始めています。

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」と、つまり日曜日の明け方です。

 次に、最初の登場人物マグダラのマリアが、「墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」と、言うのです。

 ちなみに、このマグダラのマリアこそ、イエスに最も忠実に従った女性で、復活のイエスに、「イエスが愛しておられたもう一人」に続いて出会った人物にほかなりません。

 まず、ここで言われている「墓から石がとりのけてあるのを見た。」とは、ごく普通の「見る」という体験でしょう。

「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」という体験も同じと言えましょう。

 ところが、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」ときの「見る」は、マグダラのマリアとペトロが「見た」とは、まったく異なる、まさに復活の次元(じげん)での見るという体験に他なりません。

 ちなみに、パウロは、自分の復活体験を、次のように分かち合ってくれます。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕らえようと努めているのです。自分がキリストに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標(もくひょう)をめざしてひたすら走ることです(フィリピ3:10-14)。」と。

 実は、わたしたちの復活体験は、洗礼を受けたときにすでに始まっているのです。ですから同じパウロは、洗礼の素晴らしい恵みについて、次のように説明してくれます。

「それともあなた方(がた)は、知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。・・・

 わたしたちは、キリストとともに死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます(ローマ6:3-8)。」(復活徹夜祭での使徒書の朗読箇所)

 この素晴らしい復活のいのちを日々豊かに生きることが出来るよう共に祈りましょう。

 そのため、典礼において、今日(きょう)の復活の主日から50日かけて聖霊降臨の主日まで一つの「大いなる主日」として祝い続けます。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240331.html