復活節第5主日・B年(24.4.28)

「わたしはまことのぶどうの木」

教会は主を恐れ聖霊の慰めを受け信者の数が増えていった(使徒言行9:31参照)

  早速、今日(きょう)の第一朗読ですが、福音史家ルカが、その福音書の続編として初代教会の紀元30年から63年までの、輝かしい歴史を編集した使徒言行禄の9章からの抜粋に他なりません。

 しかも、異邦人の使徒に選ばれたパウロが使徒団に受け入れられ、早速福音を伝えるようになったことの報告と言えましょう。

 とにかく、今日(きょう)に箇所では、その時の具体的な次のような説明から始めています。

「その日、サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆(だいたん)に宣教した次第を説明した。」と。

 ちなみにここで言われている「サウロが旅の途中で主に出会い」と、報告していますが、実は、この出会いによって使徒パウロの人生を決定的に変えられてしまいます。まさに、回心の体験のほかなりません。

 実は、この書の9章でその回心について、次のように説明されています。

「さてサウロは、なおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んでいた。・・・ところが、以下のようなことが生じた。すなわち行ってダマスコの近くまで来ると、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。そこで、彼はたずねた、『主よ、あなたはどなたですか』。すると答えた、『わたしはお前が迫害しているイエスである。起きて町に入りなさい。そうすれば、お前のなすべきことが告げられるであろう。』サウロと共に来た者たちは、ものも言えずにそこに立っていた。・・・アナニアは答えた、『主よ、私は、この男について多くの人々から聞きました。彼がエルサレムであなたのキリスト者たちのどんな害を加えたかを。・・・』・・・そこでアナニアは、出かけて行って、ユダの家に入り、両手をサウロの上に置いて、言った。『兄弟サウロよ、主がわたしを遣わされたのです。』すると、たちまち鱗(うろこ)のようなものがサウロの目から落ちて、見えるようになった。彼は立って洗礼を受け、食事をとって元気を取り戻した(同上9:1-19a)。」

 確かに、キリスト教徒を迫害していファリサイ派のサウロ(ローマ名はパウロ)は、ダマスコへ向かう道で、なんと復活にイエスとの感動的な出会いによって迫害者から異邦人のための使徒に回心したのです。

 そして、「エルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」というのです。

 ここで言われている「主の名によって」という言い回しですが、「イエス自身の働きによって」と言い換えることもできます。

 こうしてエルサレムで誕生した初代教会は、ユダヤ人以外の異邦人には、特に使徒パウロが中心になって宣教したので、「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」というのです。

 ここで後日談としてあえて付け加えるなら、使徒たちに次の世代では、なんと信徒たちが宣教の第一線の立ったというのです。

 初代教会の歴史の専門家アマン神父によれば、十二使徒たちがこの世を去ったのち、教会を受けついだ次世代では、宣教の主力となったのは、無名の大勢の信徒の宣教者たちでした。

 特に紀元95年から紀元197年、つまり一世紀の終わりから二世紀の終わりまでの時代ですが、キリスト教は、あたかも「伝染」のように広まって行ったというのです。しかも、その原動力は、キリスト者一人一人が抱いている信仰の喜びであり、彼らが、その喜びをわかちあわないではいられなかったというのです。

 つまり、キリスト者になることが、即宣教者になることだという体験があったというのです。それは、信仰の喜びを、信仰の恵みを、日々出会う人々と分かち合う使命にあずかることだと、みんなが自覚していたからではないでしょうか。

 

あなたがたが豊かな実を結びわたしの弟子になるならわたしの父のは栄光をお受けになる(ヨハネ15:8参照)

  次に、今日の福音ですが、ヨハネが伝える最後の晩餐の席上、イエスが弟子たちに切々と語った最後の別れの説教の第二部にあたる箇所にほかなりません。

 しかも、この場面では、イエスはまことのぶどうの木であり、わたしたちは、その枝であるというまさに教会共同体に密接な繋がりを強調した極めて感動的なたとえ話と言えましょう。

 ちなみに、ぶどうの木は、旧約聖書では、イスラエルの民をたとえていますが、この譬えから、教会論を期待するのは、無理がありますが、命の源泉であるイエスに私たちが、密接につながっているのが教会共同体であると強調することができます。

 ですから、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と、宣言すると同時に、早速「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」厳しく断言なさいます。

 つまり、信仰の恵みは、日々、成長することによって相応しく実を結ばなければならないのです。つまり、信仰とは復活の新しいいのちを日々生きることなので、当然、日々豊かにみを結ぶことができるので、もし、生活に流されて信仰のレベルから脱落するならば、実りは全くないので、御父が「取り除かれる。」のは当然ではないでしょうか。

「しかし、実をむすぶものは、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって。あなたがたは既に清くなっている。」と。

 つまり、日々、主のみことばを忠実に生きることによってこそ、豊かな実を必ず結ぶことが出来るのです。

 ですから、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と、強調なさいます。

 なぜなら、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と、念を押されます。

 しかも、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と、つまり、イエスを日々信じるか否か、そしてイエスのとどまり続けるかによって、救いか滅びかに分かれるというのです。

 ですから、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と、約束してくださいます。

 このように、日々、主のみことばに忠実に聴き従い、みことばを生きるならば、つまり、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら。それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」というのです。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
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