「モーセが荒れ野で蛇を上げたように 人の子も上げられねばならない」
この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを わたしに命じられた
(歴代誌下36:23c参照)
早速、今日の第一朗読ですが、歴代誌下が伝えるバビロンへの強制移住からようやく解放されるという希望に満ちた救いの計画が語られる箇所(かしょ)にほかなりません。
ちなみに、この歴代誌(れきだいし)ですが、上下(じょうげ)に分けて編集されている初代の王サウル、ダビデ、ソロモンと南北(なんぼく)に分裂後の南ユダ王国の歴史であります。
実は、神殿と共に再建されたエルサレムに60年ぶりに帰国できた捕囚後のイスラエル共同体の要望に応(こた)えることを目的として編集されたと言えます。
ですから、今日の個所では、前半、なぜ戦勝国の首都バビロンに強制移住という屈辱(くつじょく)に満ちた体験を強いられたのか、その原因である「主なる神の目に悪とされること」が、次のように報告されています。
「祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌(い)むべき行いに倣(なら)って罪を重ね、主が聖別(せいべつ)されたエルサレムの神殿を汚(けが)した。」と。
ここで言われている「神殿を汚(けが)した。」ですが、預言者エゼキエルが、次のように報告しています。
「お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもってわたしの聖所(せいじょ)を汚(けが)した(エゼキエル5:11)」と。
つまり、祭儀上(さいぎじょう)汚(けが)れた物である魚、鳥、虫、などの死体にほかなりません。ですから、「先祖の神、主はご自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使(みつか)いを彼らに遣(つか)わされたが、彼らは神の御使(みつか)いを嘲笑(あざわら)い、その言葉を蔑(さげす)み、預言者を愚弄(ぐろう)した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施(ほどこ)しようがなくなった。」と。
つまりイスラエルの民は大罪を犯し、神に背いてしまったというのです。
そこで、「神殿には火が放(はな)たれ、エルサレムの城壁(じょうへき)は崩され、宮殿はすべて灰燼(かいじん)に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。」と。つまり、紀元前587年、時(とき)の軍事大国バビロニアの軍隊によって都(みやこ)エルサレムは壊滅(かいめつ)状態となってしまったのです。しかも、当時の占領政策の強制移住という十字架を背負うことになったというのです。しかも、この悲劇は、すでに預言者エレミヤが次のように預言し、「この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。」と。
ちなみに、預言者イザヤは、この実状を次のように預言しています。
「慰めよ、慰めよ、わたしの民をと
あなたの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役(くえき)の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償(つぐな)われた、と(イザヤ40:1-2a)。」
しかも、このバビロンからの解放は、ペルシャ王キュロスが、まさに「油(あぶら)注がれた人(イザヤ45:1)」として、捕囚民を故国(ここく)に帰還(きかん)させるというのです。さらに、ペルシャ王キュロスは、エルサレムの神殿を立て直す使命をも、主なる神から命じられたのであります。
おそらくイスラエルの歴史において最大の試練の時、つまり捕囚時代を体験することによって、イスラエルの信仰は、確かに強められたのではないでしょうか。
それは信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである(ヨハネ3:15参照)
次に、今日の福音ですが、ヨハネが語るイエスとニコデモとの対話の核心に触れる教えを、伝えています。
まず、このニコデモですが、なんとファリサイ派に属するユダヤ人の議員ですが、夜(ヨハネにおいて、闇は罪悪と無知の象徴です)イエスのもとを訪ね、早速、イエスに、申し上げます。
「『ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるし(奇跡)を、だれも行うことはできないからです。』と。
ちなみに、古代のユダヤ文学では、神が、あるラビ(教師)を通して奇跡を行うことによって、その人の教えを認めたことになると言えましょう。
ですから、イエスは早速、本論に入ります。
「アーメン、アーメン、わたしは、宣言する。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることが出来ない(同上3:3b)。」と。
とにかく、イエスの説教全体は、自然的な段階、肉(人間性)の段階にあるものは、上へ引き上げられずに、神の領域にまで達することはあり得ないというのです。
しかも、その引き上げは、天から人間の段階にまで降(くだ)り、その後(ご)、再び天に戻り、イエスと共に全人類を天に引き上げる神によって完成されるというのです。それは、みことばであるイエスの受肉(人となられた)、十字架上での贖(あがな)いの死、復活、そして昇天(しょうてん)というイエスの全体像を示すのが、ヨハネの神学の全てと言えましょう。
ですから、その晩の説教のキーワードは、3節の「新たに生まれなければ」にほかなりません。
そこで、今日の個所ですが、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない。それは、信じるものが皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と、宣言しています。
ヨハネは、その福音書で、三回も「天に上げられた人の子」のことを繰り返していますが、今日の「人の子も上げられねばならない」は、最初のものにほかなりません。
とにかく、ヨハネは「上げられる」という言い回しに「十字架に上げられる」ことと、「天に上げられる」ことの、両方の意味を込めています。つまり、一つの出来事として見ているといえましょう。
ですから、イエスが、天の御父(おんちち)のもとへ帰る段階で、まず、十字架は、まさに天に昇る第一歩なのです。
続いて、次のようなイエスのモノローグに展開します。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者は一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子(おんこ)を世に遣(つか)わされたのは、世を裁くためではなく、御子(おんこ)によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と。
ここで、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と、強調なさっておりますが、実は、ヨハネの手紙においても、次のような説明がなされています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました(一ヨハネ4:9)。」と。
さらに、続けられます。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を好んだ。それが、もう裁きになっている。・・・しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」と。