「本当にこの人は神の子だった」
打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた(イザヤ50:6参照)
今日の第一朗読は、第二イザヤの(40章-55章)第二部で「主なる神の計画の実行」が、預言されますが、そこで歌われるのが「主の僕(しもべ)の歌」第三に他なりません。
「主なる神は、弟子として舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲(あざけ)りとつばを受けた。」と。
このように、第二イザヤには、特別な使命を担(にな)った一人の人物を歌った四つの「主の僕(しもべ)の歌」が預言されていますが、彼こそが、神の民の救いと解放を、なんと自らの苦難と死によってもたらすと言うのです。
つまり、彼が受けた侮辱と苦しみによって、人々の罪の赦しと救いを獲得できるのです。これこそ、まさに十字架の神秘によって、全人類を救うイエスのお姿を、見事に先取りしているのではないでしょうか。
ですから、さらに続きます。
「主なる神が助けてくださるから、
わたしはそれを嘲(あざけ)りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱(はずかし)められることはない、と。」
ここで、最後に、イエスご自身の十字架の道と、十字架上で受けられた辱(はずかし)められたお姿を、今日の受難劇によって思い起こしてみましょう(マタイ27:31-44参照)。
マルコによる主イエス・キリストの受難劇(マルコ15:1-30参照)
まず、初めに確認すべきは、このドラマはあくまでも神の救いの計画に基づくものであって、人間的発想には、理解するのは難しいということです。
ですから、イエスの運命は、まことに痛ましく恐ろしいものですが、これはあくまでも「主の僕(しもべ)」としての、また人の子として忠実に行動した結果にほかなりません。
まず、今日の最初の場面で、言われている「夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老や律法学者たちとともに、・・・イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。」というくだりですが、この「渡される」こそ、イエスの受難の意味を示すキーワードと言えましょう。
ですから、パウロは、ミサの制定に関するも最も古い伝承を用い、「主イエスは、彼が引き渡された夜、パンを取り、そして感謝して〔それを〕裂き(一コリント11:23b-24)、」と報告しています。なぜなら、イエスは多くの人々の救いのために死に「渡される」(マルコ14:24;10:45参照)からにほかなりません。
ちなみに、今日の場面では、ピラトの判決を、次のように説明しています。
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは,官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
『ユダヤ人の王、万歳』
と言って敬礼し始めた。また何度も棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。」と。
このように、マルコ福音書における受難は、四福音書の受難劇の中でもっとも傷ましく、最も衝撃的なものと言えましょう。ですから、イエスが十字架につけられた場面でも、次のように物々しく描写しています。
「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状(ざいじょう)書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった。・・・そこを通りかかった人々は、頭をふりながらイエスをののしって言った。
『おやおや、神殿を打ち壊し、三日目で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。
『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』・・・
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。
『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』
これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、
『そら、エリアを呼んでいる』
と言う者もいた。ある者が走り寄り、海綿の酸いぶどう酒をふくませて葦(あし)の棒につけ、
『待て、エリアが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』
と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」
全地が闇で覆われたとき、イエスが叫んだ祈りは、詩編22編の冒頭のアラム語で、イエスが呼んでいたのはエリア(9:13)ではなく、イエス自(みずか)らのすべてを任せている父なる神であり、それも死の瞬間まで息子のことばで御父に呼びかけていたのです。しかも、なんとこのドラマには見せかけの悲壮感が全く伴わずに語られていたというのです。
このように、受難のドラマは、驚くべき出来事の衝撃の中でも、淡々としたタッチで語られ、イエスの十字架上でのご死去によってフィナーレにたどり着きます。
今日から始まった聖週間の典礼に、共同体ぐるみで深い祈りによってあずかり、過越(すぎこし)の神秘を深く体験することによって共同体全体が刷新され霊的に若返ることが出来るように共に励みましょう。
ちなみにパウロは、彼の復活体験を、次のように分かち合ってくれます。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(フィリピ3:10-12)。」