四旬節第2主日・B年(24.2.25)

「これはわたしの愛する子これに聞け」

 

あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった(創世記22:12参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、百歳を超えた晩年のアブラハムが、彼の人生における最大の試練を、摂理に導かれて見事に乗り越えたことを伝える、感動的なエピソードであります。

 そこで、「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献(ささ)げ物としてささげなさい。』」と。

 当時、礼拝の代表的な方法として、家畜を祭壇の上で全部焼いて神にささげていたのですが、イスラエルでは人身御供(ひとみごくう)は、厳しく禁じられていましたので、自分の愛する独り息子を「焼き尽くす献げ物とささげる」ことは、まさにアブラハムの信仰を試される試練としか考えられません。

 けれども、アブラハムはこのいとも残酷な命令を、おそらく真夜中に受けたのでしょうか。

「次の朝早く、アブラハムはロバに鞍(くら)を置き、献げ物に用いる薪(たきぎ)を割り、二人の若者と息子を連れ、神の命じられた所に向かって行った(同上22:3)。」とありますので、彼は神の摂理に全面的に自分を委ねていたのではないでしょうか。

 ですから、「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ロバと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる(同上22:4-5)。』と。

 しかもこの「戻って来る。」は、複数になっているので、息子を一緒に戻ってくると宣言していると言えましょう。

 したがって、「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪(たきぎ)を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。」と、二人は押し黙って進みます。父アブラハムは一歩一歩運命の時に近づくのを感じていたのではないでしょうか。

 ところが、息子イサクは、今やことの異常さに気づきます。

「イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼び掛けた。彼が、『ここにいる。わが子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪(たきぎ)はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』アブラハムは、答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊は神がきっと備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。」

 ここで、アブラハムが、息子に向かって優しく、「わが子よ、焼き尽くす献げ物の小羊は、神がきっと備えてくださる。」とは、まさに、彼の確固たる摂理信仰ではないでしょうか。

 ですから、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪(たきぎ)を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪(たきぎ)の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠(ほふ)ろうとした。

 そのとき、天から主のみ使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が、『はい』と答えると、み使いは言った。

 『その子に手を下(くだ)な。何もしてはならない。あなたが神を畏(おそ)れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』

 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。・・・

 アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日(こんにち)でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」と。

 

「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たこをだれにも話してはいけない(マルコ9:9参照)」

 次に、今日の福音ですが、マルコが伝えるイエスのご変容(へんよう)の出来事を、いとも感動的に物語っています。            

  まず、今日の個所(かしょ)の文脈ですが、イエスが、初めて弟子たちにご自分の最期(さいご)について、前の8章でご受難と復活の初めての予告を、はっきりとなさいました。

 ところが、「ペトロはイエスをわきへお連れして、諫(いさ)め始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている(同上8:32b-33)。』」と。

 しかも、今日のご変容の出来事は、このイエスの予告から丁度、「六日の後(のち)(同上9:2)」のことにほかなりません。

 ですから、このご変容(へんよう)の出来事によって、せめてペトロと、ヤコブ、ヨハネだけにイエスの栄光に輝くお姿を見せたかったのではないでしょうか。

「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」

 この出来事は、弟子たちが、イエスが告げられた受難の予告で、まだ、動揺していたときに起こりました。

 しかも、イエスは、新しい契約のシナイ「高い山」に、これら三人だけを連れて「登って」いきます。

 そこで、神の栄光が、イエスの変容したみ顔において啓示されるのです。ちなみに、マルコ福音書においてしばしば、「山」は、啓示とイエスの生涯の中で重要な出来事の背景になっています。

 そこで、イエスの姿は、「彼らの目の前で変わり」ました。

 その時、イエスの人間性は、神の子である威厳、彼の再臨の時に完全かつ永久に示される栄光を輝かせていました。彼の「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」というのです。

 まさに、この出来事は、イエスが「御父の栄光」について語ったことの目に見える確証ではないでしょうか。

 変容したイエスには、旧約の契約の偉大な二人の人物が伴っていますが、三人の弟子たちは、彼らが不思議な業を行うエリヤと、律法を与えた人物モーセだと分かっています。

 そこで、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」

 ちなみに、ルカによれば、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について話していた(ルカ9:31)。」というのです。

 さらに、「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋(かりごや)を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」

 このペトロの衝動的な反応は、彼がまさに天の栄光を体験して、抑えることが出来ない畏れと感動を味わった証(あかし)と言えましょう。

 そして、「雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」と。

 ですから、わたしたちはが、たとえこのご変容の出来事に参加できなくても、日々、イエスに聞き従うことによって復活に到達できるのではないでしょうか。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240225.html