四旬節第1主日・年年(24.2.18)

「時は満ち神の国は近づいた」

雲の中に虹が現れると契約を心に留める(創世記9:14-15参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、創世記が語る洪水の後(あと)、主なる神とノアとの間に結ばれた次のような契約の場面であります。

「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣(けもの)など、箱船(はこぶね)から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣(けもの)と契約を立てる。」と。

 では、この契約の内容は、一体どんなものでしたか。次のような説明が続きます。

 主なる神は「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」と約束なさいます。

 ここで復習ですが、なぜこのようなことごとく滅ぼされる洪水が起こったのでしょうか。次のような創世記の記事を、確認してみましょう。

「神はノアに言われた。『すべての肉なるものを終わらせる時が、わたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす(同上6:13)。』」と。

 次に、実際にまさに地球規模の大洪水が起こりますが、「ノアが百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に水を逃れようと箱舟に入った(同上7:8)。」というのです。

 続いて、今日の場面を、次のように導入します。

「ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日(ついたち)に、地上の水は乾いた。・・・

 そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。・・・ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす捧げ物として祭壇の上にささげた(同上8:13-20)。・・・」そして、今日の場面に続きます。

 そして、今日の場面は、次のように展開します。

「更に神はいわれた。『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。・・・わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約を心にとめる。水が洪水となって、肉なるものをすべてほろぼすことは決してしない。』と。

 

洗礼は神に正しい良心を願い求めること(一ペトロ3:21b参照)

 次に今日の第二朗読ですが、使徒ペトロが、書いたとされる手紙一の3章で、ノアの時代の出来事を背景に、「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」と、断言しています。

 実は、この手紙は、初代教会において洗礼を受けて新しく信者になった人たちに対しての説教のさわりの箇所と考えられます。

 それでは、少し詳しく、たとえば「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちはノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」という説明ですか、まず、「肉では死に渡されましたが」ですが、死すべき弱い肉(人間性)におけるキリストのこの地上での状態を指し、「霊では生きる者とされた」とは、永遠に生きる強い霊におけるキリストの復活後の姿を指していると言えましょう。

 ですから、「捕らわれていた霊たち」とは、ノアの時代に堕落(だらく)した「神の子ら」のことを指していると言えます。

 したがって、「この箱舟に乗った数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」とは、教会を前もって表した箱舟に乗ったキリスト者が救われる意味になると言えましょう。

 つまり、「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。」と、断言しています。

 しかも、「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」というのです。

 すなわち、洗礼は、ユダヤ教では、今日にいたるまで行っている割礼のようなものではなく、内面的にもその人を全く新しく変え、今までとは違った生き方の実践を約束するというのです。なぜなら、聖霊によって新しいいのちが授けられたからにほかなりません。

 

回心して福音に信頼せよ(マルコ1:16b参照)

 最後に、今日の福音ですが、マルコが伝えるガリラヤにおけるイエスの宣教活動の開始を、次のように伝えています。

「ヨハネが捕らえられた後(のち)、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣(の)べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音に信頼しなさい』と言われた。」

 実は、同じマルコは、洗礼者ヨハネが捕らえられた経緯(けいい)を、次のように説明しています。

「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた(同上6:17)。」というのです。

 ですから、イエスの先駆者ヨハネの時代が、終わり、いよいよイエスの出番が来たというのです。

 したがって、イエスは、開口一番、まさにイエスの宣教活動の核心に触れる力強い宣言をなさいます。まず、タイミングです。「時は満ち、神の国は近づいた。」つまり、神が定めた待望のメシアの時、すなわち救いの歴史の時が満ち、神の国がこの地上に到来したという宣言にほかなりません。

 では、この「神の国」とは、一体何ですか、その定義は聖書に中にはありません。ですから、マタイは、神の国を次のようにすべて、たとえで語ります。

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。・・・また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器(うつわ)に入れ、悪いものは投げ捨てる(マタイ13:44-48)。」

 また、次のようなたとえを語ります。

「天の国はからし種に似ている。人がこれをとって畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる(同上13:31-32)。」

 最後に、「聖書と典礼」では、マルコによる福音の最後のくだりが、「悔い改めて福音を信じなさい」となっていますが、あえて「回心して、福音に信頼しなさい」に変えました。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240218.html