「世界病者の日」(年間第6主日)・B年(24.2.11)

「イエスは深く憐れんで」

 

 本日は「世界病者の日」に当たっていますので、初めに、教皇フランシスコの第32回「世界病者の日」教皇メッセージのさわりの箇所を、朗読いたします。

 まず、メッセージのタイトルを「『人が独りでいるのはよくない』関係性をいやすことで、病者をいやす」とし、次のように語り掛けておられます。

「『人が独りでいるのはよくない』(創世記2:18)世の初めから、愛である神は人間を交わりのために創造され、その本性に関係性という次元を刻み込まれました。・・・わたしたちは独りでいるためにではなく、共にいるために創造されたのです。そして、この交わりの計画が人間の心の奥底に刻まれているからこそ、捨て置かれる経験、孤独になる経験を恐れるのであり、それをつらく、非人間的とすら思うのです。重い病(やまい)によって弱気になり、先の見えない不安な時期には、その傾向は一層強くなります。・・・

 そしてまた、戦争とその悲惨(ひさん)な影響で、支援も救護(きゅうご)も得られずにいる人々の苦しみと孤独にも、わたしたちは心を痛めています。戦争はもっとも恐ろしい社会の病(やまい)であり、いちばんの弱者が、もっとも高い代償(だいしょう)を払わされるのです。・・・

 わたしたちの生きる、この変転(へんてん)の激しい時代において、キリスト者こそ、イエスのいつくしみ深いまなざしを自分のものとするよう求められています。隅(すみ)に追いやられたり見捨てられたりもする、苦しみや孤独にある人に心を配りましょう。祈りの中で、とりわけ感謝の祭儀において、主イエスが与えてくださる相互愛をもって、孤独と孤立の傷をいやしましょう。」

 

(ちり)にすぎないお前は塵(ちり)にかえる(創世記3:19c参照)

 それでは、いつもように今日の第一朗読ですが、創世記が語る人類が最初に罪(原罪)を犯したので、主なる神が判決(はんけつ)を下す場面であります。

 まず、蛇(へび)の誘惑に負けてみことばにそむいてしまった女に向かって、次のような判決が下されます。

「お前のはらみの苦しみを大きなものとする。

 お前は、苦しんで子を産む。

 お前は男を求め

 彼はお前を支配する。」と。

 まず、ここでいわれている「はらみの苦しみ」ですが、直訳(ちょくやく)すれば「お前の苦しみとお前の妊娠」となり、続く「お前は男を求め」の意味に一致します。 

 続いて、なぜ人間が食べ物を得るために苦労して土を耕さなければならないのか、またなぜ労苦して土を耕しても豊かな実りを得られないのかという原因物語的問いに対する答えにほかなりません。

「神はアダムに向かって言われた。

 『お前は女の声に従い

    取って食べるなと命じた木から食べた。

 お前のゆえに土は呪われるものとなった。

 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

 お前に対して

 土は茨(いばら)とあざみを生えいでさせる

 野の草を食べようとするお前に。

 お前は顔に汗を流してパンを得る

 土に返るときまで。

 お前がそこから取られた土に。

 塵(ちり)にすぎないお前は塵(ちり)に帰る。」

 この最後のくだりは、最初の人間アダムが創造されたときの次のような説明に由来します。

「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(同上2:7)。」

 

たちまち重い皮膚病は去りその人は清くなった(マルコ1:42参照)

 次に、今日の福音ですが、マルコが伝えるイエスが重い皮膚病(ひふびょう)を癒された感動的な場面であります。

 場所はガリラヤですが、この重い皮膚病を患(わずら)っている人が、大胆にもイエスのところに来てひざまずいたと言うのです。

 当時(とうじ)、このような病人は、社会から隔離(かくり)された所で集団生活をしていたようです。しかも、人前(ひとまえ)に出て来てもある一定の距離をたもたなくてはなりませんでした。

 ところが、この病人は、全(まった)き、信頼をもって嘆願(たんがん)します。

「御心(みこころ)ならば、わたしを、清くすることがおできになります。」

 この、ひたむきな病人を、イエスは「深く憐れんで、」と、イエス特有(とくゆう)の感情を表します。

 これは、福音書の中で御父とイエスに関してのみ使われる特別な表現で、はらわたの底からあふれでる強烈な感情といえましょう。ですから、イエスは、大胆(だいたん)にも、「手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』」と宣言なさいます。すると、「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」というのです。

 ところで、マルコは、なぜ、治ったではなく「清くなった。」と、断言(だんげん)しているのでしょうか。

 それは、当時の社会では、このような皮膚病は、律法では「けがれた者」とされ、共同体から隔離(かくり)され、人前(ひとまえ)にでてくることは禁じられていたようです。

 ですから、「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』」と、命じます。

「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然(こうぜん)と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。」というのです。

 ここで、なぜ、イエスが「だれにも何も話さないように気をつけなさい」と、命じられたのでしょうか。

 これは、マルコ福音書において「メシアの秘密」と言われる最初の事例(じれい)と言えましょう。

 つまり、この秘密とは、イエスが公(おおやけ)に宣教活動をなさっておられる間(あいだ)、あえてご自分が誰であるか、また力ある業(わざ)を公(おおやけ)にしないと主張していることにほかなりません。

 ところで、私が築館教会を担当していた時ですが、隣(となり)町にある国立ハンセン病療養所内ある小さな聖堂で、毎日曜の午後1時に信者の患者さんたちのために、ミサを捧げていました。

 最初にまず感じたのは、彼らの祈りがまさに心の底から捧げられているということです。つまり、彼らがそのような重い病(やまい)にありながら、唯一頼りに出来るのは、その方々の信仰にほかなりません。

 そこで、聖堂まで来ることが出来ない重症の方々のためには、病室まで出向いてご聖体を授けました。

 ある日曜日のことです、重症(じゅうしょう)で聖体拝領もできない60代の女性の信者さんが、「神父さん、み言葉をください。」と、か細(ぼそ)い声で囁(ささや)いたのです。

 その切なる願いに答えるために、その時以来、説教をテープに録音し、そのテープを、容体(ようだい)の良い時に聞いてもらい、それが終われば別の患者さんたちにも聞いてもらうようにしました。

 とにかくこのみ言葉に対する確固(かっこ)たる信仰に感動したことは、いつも大切にしている貴重な体験です。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240211.html