2020-01-01から1ヶ月間の記事一覧

四旬節第4主日・A年(1996.3.17)【ヨハネ9:1-41】  

目が見えるようになる 神の業が現れる 古今東西を問わず、因果応報の考えはまだ根強く残っている。特に生まれながらの障がいなどは、罪の結果と思われている。 しかし主はまったく新しい視点でとらえることをはっきりと教えてくださる。 「本人が罪を犯した…

四旬節第3主日・A年(1996.3.10)【ヨハネ4:5-42】

主よ。渇くことのないように、その水をください 魂の渇きに気づく このサマリアの女は、人目をはばかって、だれも来ない真っ昼間に水を汲みに来なければならなかった。しかしイエスがあたかも待っていたかのように、ひとりでその井戸のそばに座っておられた…

四旬節第2主日・A年(1996.3.3)【マタイ17:1-9】

これは私の愛する子 彼に聞け 復活への道を示す 「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」 この主のご変容の背景に、まずシナイ山でのモーセの神との出会いが考えられる。 「山から下った時、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放って…

四旬節第1主日・A年(1996.2.25)【マタイ4:1-11】

誘惑に打ち勝つ 自分の能力を示す 四旬節に入り、主の歩まれた試練の道を、確認する恵みの時をいただく。 悪霊の導きと悪霊の誘惑は、同時進行する。誘惑を受けても聖霊の導きによってそれに打ち勝つならば、信仰はかえって鍛えられる。つまり誘惑が試練に変…

四旬節第5主日・A年(1996.2.24)【ヨハネ11:1-45】

ラザロ、出て来なさい 死んでも生きる イエスの公生活を締めくくる重要な神のみ業(わざ)のしるしが、ラザロの復活である。 しかしこの奇跡がユダヤ人にイエスを殺す決断をさせてしまった。(ヨハネ11:45以下) 「わたしを信じる者は、死んでも生きる」 ま…

年間第7主日・A年(1996.2.18)【マタイ5:38-48】

天の父の完全さによって変えられる 神の愛による変革 「悪人に手向かってはならない」というご命令は、悪を力、特に武力によって征伐しなければならない、という原理を全く否定しておられる。ごく日常的な次元でもやられたらやり返すべきだと思い込んでいる…

年間第6主日・A年(1996.2.11)【マタイ5:17-37】

アーメン・わたしはあなたたちに言う 新しい生き方を示す モーセを通して与えられた掟(おきて)は、長い伝統の中でさまざまな規則が加えられ、人々は掟の本来の意味を見失っていたようである。だからイエスは神の掟の真意を知らせるだけでなく、全く新しい…

年間第5主日・A年(1996.2.4)【マタイ5:13-16】

あなたがたは地の塩 世の光である 地の塩である 自分の信仰が、この世にとってどんな意味と価値をもっているのかを、主がはっきりと教えてくださる。まず、信仰は自分のためだけではない。 「地の塩である」とは、信仰の根本的なあり方なので、自分の方から…

年間第4主日・A年(1996.1.28)【マタイ5:1-12】

貧しい人は幸いである 神がくださる幸い イエスは全く新しい幸せを示された。普通考えられている物質的豊かさでもなければ、この世的な成功や生活の安定でもなければ、まして自己満足でもない。 実の幸せは、神を信頼する者に神がくださる祝福なのだ。だから…

年間第3主日・A年(1996.1.21)【マタイ4:12-23】

神の国が近づいた 回心せよ 福音の光が輝く 「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」 このイザヤの預言は、イエスの宣教の地ガリラヤで実現した。神の愛の支配(神の国)が始まったという喜ばしい知らせは、死、飢餓、弾圧、差別などに苦しむ人々に告げられ…

年間第2主日・A年(1996.1.14)【ヨハネ1:29-34】

見よ、世の罪を取り除く神の小羊 イエスをあかしする 洗礼者ヨハネが自分の弟子に、イエスをあかしした。(ヨハネ1:35-37) あかしとは自分をお手本として示すのではなく、イエスを指し示すことではないか。ギリシア語では「あかし人」という言葉は「殉教者…

主の公言・A年(1996.1.6)【マタイ2:1-12】

メシアの星に導かれて 主を探し求める 今年も、主の導きに日々従う一年にしたい。そのために東方の学者たちのように絶えず主を探し求めなければならない。今年が本当に良い年になるのは、主の示す道を忠実に歩むからである。 「王としてお生まれになった方は…

降誕節第3主日・A年(1995.12.17)【マタイ11:2-11】

来るべき方は あなた だれを迎えるのか 「ほかの方を待たなければなりませんか」 イエスがどのようなお方なのか、洗礼者ヨハネもまだわかっていなかったのだろうか。イエスが何をなさっているのかを、しっかり見なければならない。 「見えない人が見えるよう…

待降節第1主日・A年(1995.12.3)

『覚めた目で今日を見る』(マタイ24:37-44) 毎日主を迎える 待降節は何よりも、自分がどのような信仰の姿勢で生活しているのかを、真剣に見直す時である。 特に主ご自身に対しての態度を振り返る必要がある。典礼は、主の来臨に対する心構えを教えてくれるが…

待降節第2主日・A年(1995.12.3)【マタイ3:1-12】

回心せよ 天の国は近づいた 荒れ野での回心 待降節には、神に立ち帰るために、いったん自分を精神的荒れ野に置かなければならない。 ちょうどイスラエルの人たちが荒れ野に導かれ、ひたすら神のみ頼って生きたように。 生活が複雑になり、快適さや、便利さと…