待降節第2主日・A年(1995.12.3)【マタイ3:1-12】

回心せよ 天の国は近づいた

荒れ野での回心

待降節には、神に立ち帰るために、いったん自分を精神的荒れ野に置かなければならない。

ちょうどイスラエルの人たちが荒れ野に導かれ、ひたすら神のみ頼って生きたように。

生活が複雑になり、快適さや、便利さと物理的豊かさのとりこになっている生き方を整理して、神の呼びかけに集中することが必要だ。

神の呼びかけ、促し、勧めに心を向け、自分の生きる姿勢を、根本的に変えることが回心である。天の国すなわち「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28:18)主の支配に忠実に従うことだ。そして主の力強い呼びかけがあるから、回心できるのである。

 

主の道を整える

心をしっかりと主に向けなければならない。主が示してくださる道を歩み、「道であり、心理であり、命である(ヨハネ14:6)主とともに生きるのである。主から離れないように、絶えず主の呼びかけに心の目をそばだて、信頼を持って応答したい。

預言者エリヤの再臨とみなされた先駆者ヨハネは新たな時代、つまりメシアの到来に向けて準備をさせてくれる。待つことの緊張が心にみなぎっているだろうか。期待と喜びがあふれてきたか、もしそうでないならなぜだろうか、正直に自分に問いかけたい。

 

良い実を結ぶ

信仰はただ守るだけではない。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ実を結ぶことができない・・・人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15:4-5)

真の回心は、必ず実りをもたらす。なぜなら主が共に働いてくださるからだ。(マルコ16:20)福音を分かち合うために出かけていき、神の国すなわち神の愛の支配が私たちの間に広がってきていることをあかしするのである。この神こそが素晴らしい実りをもたらしてくれるに違いない。

聖霊と火の洗礼

悔い改めて罪を告白することだけでなく、聖霊の火によって新しい人にしていただき、主の来臨に備えることができる。

「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、私たちも新しい命にあずかるので、古い自分に死んで主において新しく創造されるのである(2コリント5:17参照)

信仰の希望と喜びは、聖霊によって日々新たにされるから生まれるのである。救いへの大きな期待は、新たな勇気と確信を与えてくれるのではなかろうか。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。