待降節第1主日・A年(1995.12.3)

『覚めた目で今日を見る』(マタイ24:37-44)

 毎日主を迎える

待降節は何よりも、自分がどのような信仰の姿勢で生活しているのかを、真剣に見直す時である。

特に主ご自身に対しての態度を振り返る必要がある。典礼は、主の来臨に対する心構えを教えてくれるが、結局「その日、その時」を知らないから、いついらしてもよいように、毎日迎える用意をしなければならない。

 

生活に流されない

「ノアの時と同じ」にならないように、いつも神に焦点をきちんと向けているだけでなく、まさにノアのように忠実にかつ誠実に神に従い、神と共に歩むことである。

よく注意しないと、神を信じていると思い込んでいるだけであって、実際には神をないがしろにしたり、ほとんど無視して生活してしまう危険がある。

だから信仰を生きるためには、どうしても意識して神に従うという心構えを、日々新たにすることが必要である。生活に流されず、いつも心のアンテナを神に向けておくことである。

 

裁きで分けられる

「一人は連れて行かれもう一人は残される」

たとえ同じ場所で同じことをしていても、神から見れば決定的な違いがあるのは、なぜだろうか。

「人は外観を見るが、主は心を見る」(サムエル上16-7)

心が常に神に向かっていなければならない。絶えず意識していなかれば、常識や世間の価値観を基準にして考え、判断し行動してしまうのではないか。

 

神の視点に立つ

 今日の福音は、自分の思いや考え、特に何に基づいて行動しているかを、根源的に問いかけている。

「泥棒が夜のいつごろやってくるかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしない」

いつも神を思い、促し、勧め、呼びかけを敏感にかつ忠実に受け止めるために、まず自分の思い込みや考えを捨てなければない。

ちょうどペトロが厳しく叱られたように、十分に注意しないと「神のことを思わず、人間のことを思う」(マルコ8-33)重大な過ちを繰り返してしまう。

低きに下がって見る

神の視点に立つなら、今まで見えなかった現実が見えてくる。だから飢えている人、渇いている人など、苦しみや痛みを抱えている人たちにかかわる新しい生き方ができるようになる。(マタイ25:31-46)

まさに愛の目で世の中を見ることこそが、信仰者にとって不可欠である。そのために、マスコミや世間の価値観に惑わされないで、しっかりと神の思いを感じ取る信仰の感性が育っていなければならない。そうすれば何も恐れることはない。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。