降誕節第3主日・A年(1995.12.17)【マタイ11:2-11】

来るべき方は あなた

だれを迎えるのか

「ほかの方を待たなければなりませんか」

イエスがどのようなお方なのか、洗礼者ヨハネもまだわかっていなかったのだろうか。イエスが何をなさっているのかを、しっかり見なければならない。

「見えない人が見えるようになる」主との出会いはただの視力回復にとどまらない。自分の思い込み、先入観、偏見、固定観念などのうろこが取り除かれ、真実が見えるようになれる。罪から解放されるので、神の前で本来の自分が見えてくる。

「歩けるようになる」とは、単に歩行可能になるといった体験を越えることではないか。自分の人生に新たな希望と勇気をいただいて再出発することである。

「重い皮膚病は清められる」という素晴らしいいやしは、神の国の到来のしるしである。最もみじめなだと思っていた自分の生は、復活の恵みによって変革されるのだ。

六十二年間ハンセン病とたたかって亡くなられた方の、火葬で残された骨が白く輝いていたのが強烈な印象として今も残っている。

「耳が聞こえるようになる」とは、神の語りかけが分かるように、自分のかたくなな心が変えられることではなかろうか。心の耳を固く閉ざしていたのがイエスとの出会いによって開かれるのではないか。

「死者は生き返る」ことを、イエスははっきりと言われる。

「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)

医者から数ヶ月の命と宣告されても、生き続けることができるのは、既に復活の命にあずかっているからではないか。勇気を持って自分の死を受け止めた方の平安は素晴らしい。

死より強い信仰の恵みによって、人生は全く変えられてしまう。

 

福音は貧しい人に

イエスがくださる福音によって、自分のものの見方、考え方、価値観、生き方が根本的に変革されなければならない。貧しいことは不幸せだ、逆に富んでいることが幸せ、大きいこと、多いこと、強いことは良いことだという思い込みからどこまで解放されているか。

「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)

神の愛の支配を真っ先に受け止めることができるから、幸せなのだ。富んでいて間に合っていると思っているかぎり、神に心を開けない。

福音はまず貧しい人たちに告げられているなら、彼らから福音を教えてもらうべきだ。

「福音宣教」という言葉自体から自分たちがあたかも教えるのだという錯覚を持ってしまうので、結局何もできないことになるのではなかろうか。

「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」何という番狂わせか。イエスによってもたらされた神の支配はこの世的物差しでは測れない。だからもっと福音に徹するべきではないか。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。