四旬節第3主日・B年(24.3.3)

「イエスの言われる神殿とは  ご自分の体のことだった」

 

神はこれらすべての言葉を告げられた(出エジプト20:1参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、出エジプト記が語るシナイ山での契約の基礎である十戒がイスラエルの民が聞こえるところから、与えられた場面を荘厳に伝えています。

 ところで、今日のこの場面に至るまでの、イスラエルの実情を簡単に振り返ってみましょう。

 まず、イスラエルの民が、へブライ人(エジプトでは下層階級の名称)と呼ばれ、エジプトの奴隷の家で搾取(さくしゅ)されていた状態から、モーセの導きによって奇跡的に脱出し、紅海を渡り、荒野に逃げ込み、ようやく神の山シナイにたどり着いたところであります。

 このように、抑圧<からの>の解放は、「神を神とする」真(まこと)の信仰<への>自由であったと言えましょう。しかも、イスラエルが部族連合としての神の民を形成できたのは、各部族が契約と共に生きたからにほかなりません。

 しかも、シナイ山で、モーセが祭司、預言者として国民的指導者となり、主なる神とイスラエルとの間で結ばれた契約が今日(きょう)のテーマになっていると言えましょう。

 ちなみに、この十戒ですが、モーセの時代から今日にいたるまで生き抜いて来たのではないでしょうか。しかも、この十戒は、単に個人の生き方を教えるだけでなく、それ自体一つの社会像をもっているので、まさに今日(こんにち)においても深い意義をもっていると言えます。

 まず、第一戒の「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない(同上20:3)。」ですが、人間生活のあらゆる領域(りょういき)における神の主権と支配を示しています。

 第二戒の「あなたにはいかなる像も造ってはならない。」

 これは、神のおられる所を制限し、神の啓示される場所を人間が勝手に設定してはならないということですが、教皇フランシスが意味軸(いみじく)も指摘なさるように今日(こんにち)、世界にはびこっている偶像とは、「わたしたちが、貨幣が自分たちと自分たちの社会を支配すること、素直に受け入れてしまったことです。・・・私たちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真(まこと)に人間的な目標を欠く、貨幣経済と顔の見えない経済制度の独裁と権力というかたちで、モーセの時代の金の雄牛の崇拝が、新しい、冷酷な姿をあらわしています(「福音の喜び」55項)。」と。

 第三戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」ですが、古代においては、「名は、それを持っている人格の力を示すもの」だったので、神の名をおまじないのように誤って唱えることを禁じています。

 第四戒の「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」と、第五戒の「あなたの父母を敬え。」とは、いずれも共に宗教生活の秩序に関する掟にほかなりません。この第四戒は、今日(こんにち)では、教会の掟の第一、「日曜日と守るべき祭日に、ミサ聖祭にあずかり、労働を休むこと。」となっています。

 ちなみに、この第五戒の「あなたの父母を敬え」ですが、あくまでも家庭内における信仰生活の秩序に関する掟つまり、親には、神をこの地上において代表するあり方が求められているので、親を敬うのは、親が子に対し、つまり次の世代に対して神の代理者として重い責任を担っているからにほかなりません。

 続いて第六戒から第十戒までの掟を、パウロは、「『姦淫(かんいん)するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます(ローマ13.9)。」と、主張しています。

 

この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる(ヨハネ2:19参照)

  次に、今日の福音ですが、ヨハネが伝えるエルサレムの神殿の清めについての感動的な場面です。

 まず、イエスが、「神殿の境内(けいだい)で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替(りょうがえ)をしている者たちをご覧になった。」というのです。当時、神殿に詣(もう)でるとき、捧げものとして家畜を調達(ちょうたつ)するために、それらを境内で売ることは許されていたのです。しかも、彼らのお金を、献金できる硬貨(こうか)に変えることも必要だったのですが。

 ところが、「イエスは縄で鞭(むち)を作り、羊や牛をすべて境内(けいだい)から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売るものたちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思いだした。」というのです。

 つまり、イエスのこのような過激(かげき)な言動(げんどう)によって、神殿それ自体を非難しているからにほかなりません。

 因みに、ヨハネは、4章で、イエスとサマリアの女とのいとも感動的な出会いを語る中で、サマリアの女に向かって次のように宣言しています。

「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(ヨハネ4:21-24)。」と。

 とにかく、そこで、「ユダヤ人たちは、イエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」

 今日(こんにち)、わたしたちが、霊と真理をもって天の御父を礼拝する神聖な場は、聖堂にほかなりません。

 しかも、この礼拝の中心は、共同体が捧げるミサであります。

 ですから、第二バチカン公会議における典礼刷新によって、まず、典礼の重要性を次のように宣言します。

「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出す源泉(げんせん)である(「典礼憲章10項」)。」と。

 さらにミサの大切さを、次のように説明しています。

「神の民は、キリスト教的生活の全体の源泉であり頂点である感謝の祭儀の生贄(いけにえ)に参加し、神的生贄(しんてきいけにえ)を神にささげ、その生贄(いけにえ)と共に自分自身をもささげる。こうしてすべての信者は、奉献においても聖体拝領においても、無秩序にではなく、それぞれの固有なしかたで、典礼行為において固有の役割を果たす。さらに、感謝の祭儀においてキリストのからだによって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、みごとに実現する神の民の一致を具体的に表す(「教会憲章11項」)。」

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240303.html