復活節第4主日・B年 (24.4.21)

「わたしは良い羊飼いである」

 

あのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです(使徒言行4:16b参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、福音史家ルカが、紀元30年から63年までの聖霊に満たされた最初期の教会の歴史を編集した使徒言行録の4章からの抜粋であります。

 ちなみに、この箇所の文脈ですが、4章1節から22節にわたってペトロとヨハネの大胆な宣教活動の報告に他なりません。

 ですから、今日の個所に至る前の場面は、次のように準備されています。

「ペトロとヨハネが民衆に話していると、祭司たち、神殿守備隊長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣(の)べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢(ろう)にいれた。・・・しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった(同上4:4)。」と。

 ここで言われている「祭司たち、神殿守備隊長、サドカイ派の人々」とは、当時のユダヤ社会の指導者階級に他なりません。

 ところか、これら指導者階級が、こぞってイエスの復活を宣教されたので「彼らはいらだち、ペトロとヨハネを捕らえて牢に入れた。」というのです。

 そして「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威(けんい)によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問(じんもん)した(同上4;5-7)。」

 そして、今日の箇所に続きます。

「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。『民(たみ)の議員、また長老の方々(かたがた)、今日(きょう)わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民(たみ)全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。』と、熱弁をふるいます。

 特に、この人物の奇跡的いやしは、「復活させられたイエス・キリストの名によるものです。」と、強調しています。つまり、「名による」すなわち、イエス・キリストがもっている特別な力によると断言しています。

 ですから、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と、確認しています。

 

わたしは羊のために命を捨てる(ヨハネ10:15b参照)

  続いて、今日の福音ですが、ヨハネが伝える「良い羊飼いイエス」についての、感動的な主張に他なりません。

 まず、最初にイエスが、ご自分が「良い羊飼い」であると紹介なさり、その生きざまをくわしく強調なさいます。

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、つまり、牧畜(ぼくちく)生活の中で、外敵(がいてき)に対して羊を守るために羊飼いたちがある場合には自分が傷を負い、あるいは命を失うことがあっても、主人から託された羊を守るために、勇敢(ゆうかん)に戦う、ということが実際にあったのでしょう。

 ですから、そのことをたとえとしてイエス自身が、わたしたちの罪をあがなうために、みずからの命を捨てると主張しているといえましょう。

 続いて「羊飼いでない雇人(やといにん)を、次のように引き合いに出します。

「自分の羊を持たない雇人(やといにん)は、狼(おおかみ)が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・・彼は雇人(やといにん)で、羊のことを心にかけていないからである。」と。

 さらに、羊飼いの特徴を、次のように強調(きょうちょう)なさいます。

「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」と、断言(だんげん)なさいます。

 ここで、強調(きょうちょう)されている「知る」ですが、ヨハネ福音書においては、「信じる」という言葉以上にまさに本質的な親しい関係を示していると言えましょう。

 次に、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と。

 ちなみに、ここで言われている「この囲いに入っていないほかの羊もいる。」ですが、「この囲い」というのは、まさに具体的な一つの教会共同体を意味していると言えましょう。とすると、「この囲いに入っていないほかの羊」とは、当時のヨハネ共同体とは別にキリスト共同体が存在していたとも受け止めることが出来ます。

 したがって、「良い羊飼い」は、当然のことながら「この囲いに入っていないほかの羊たちをも導かなければならない。その羊たちもわたしの声を聞き分ける。こうして、羊たちは一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」というのです。

 さらに、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取るとこはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」と、強調(きょうちょう)なさいます。

 ちなみに、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」という宣言は、十字架の死の背後(はいご)に復活を信じているというまさにヨハネ的な表現といえましょう。

 つまり、イエスは御父の御心との一体化(いったいか)・一致(いっち)のゆえに十字架にあげられる。しかも、この十字架の死によって一旦(いったん)は、イエスは、人々の罪を担って(にな)断罪(だんざい)されることになる。けれどもこの贖罪(しょくざい)のゆえに神は人々を赦すだけでなく、イエスを死者の中から復活させられるというのです。

 さらに、強調なさいます。

「それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟(おきて)である。」と。

 ここで、締めくくるにあたり、詩編23編で歌われている「主(しゅ)は羊飼い」の一節「主は憩(いこ)いの水のほとりに伴(ともな)い魂を生き返らせてくださる(2b-3a)。」を、紹介します。

 つまり、現代人の生活は、このような憩(いこ)いを得るどころか日々忙しく飛び回り、心身ともに疲れ切ってストレスが溜まってしまいます。

 ですから、父なる神は、そのような私たち人間一人ひとりに心を配り、わたしたちを憩(いこ)いの水のほとりに導いて下さり「魂(たましい)を生きかえらせてくださる」と、いうのです。

 ですから、日々自分の十字架を背負って主に従えば、必ず「魂(たましい)を生きかえらせてくだる」のではないでしょうか。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240421.html