復活節第3主日・B年(24.4.14)

あなたがたに平和があるように」

回心して立ち帰りなさい(使徒言行禄3:19参照)

  今日の第一朗読ですが、福音史家ルカが、その福音書の続きとして紀元30年から63年までの初代教会の輝かしい歴史を編集した使徒言行禄の3章からの抜粋にほかなりません。

 ちなみに今日の個所は、ペトロとヨハネが「午後3時の祈り」のために神殿に昇って行った所で、なんと生まれながらの足の不自由な男をいやした場面での出来事と言えましょう。

 しかも其の奇跡的に癒された男が、ペトロとヨハネにしきりに縋り付いているので、群衆が、駆け集まって来たというのです。

 そこで、ペトロが民衆に向かっていとも雄弁に語り始めました。

「イスラエルの人たち、このことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕(しもべ)イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」と。つまり、ペトロは、群衆に向かって、復活させられ栄光に挙げられたイエスの名によって、その生まれながらの障害(しょうがい)を担っている人をいやしたと、宣言しているのではないでしょうか。

 しかも、そのイエスを十字架上で処刑したことの責任は、群衆にあるのですが、父なる神は、イエスを復活させることによってイエスの果たされる偉大な力を強調していると言えましょう。

 ですから、続いてペトロは、なんと群衆(ぐんしゅう)を、次のように弁護(べんご)します。

「ところで、兄弟たちよ。あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちをと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このように実現なさったのです。」と、死と罪に打ち勝って復活させられたイエスの救いの業を強調しています。

 しかも、「だから、自分の罪が消し去られるように、回心して立ち還りなさい。」と、呼びかけています。

 ここで、あえて説明したいのですが、実は、19節の「悔い改めて」を、「回心して」と、言い換えたのは、近年、カトリック教会が、伝統的に言われていた「悔い改める」が、ギリシャ語の原語メタノイアの訳としては舌足らずということで、あえて「回心」つまり、生き方を神に向けて切り替え、神との新しい関係を築いて行くという姿勢転換としたと言えましょう。

 

聖書を悟らせるために彼らの目を開いて言われた(ルカ24:45-46参照)

  次に、今日の福音ですが、ルカが伝える復活のイエスが、初めて弟子たちの真ん中に現れたことの報告にほかなりません。

 実は、同じ日つまりイエスが復活させられた当日にクレオパともう一人の弟子が、すでにエマオで復活のイエスに食事中にお会いできたので、「時を移さず出発して、エルサレムに引き返してみると、十一人とその仲間とが集まっていて、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した(同上24:33-35)。」という文脈なのです。「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」と。

 とにかく、すでに復活のイエスにお会いできたクレオパともう一人の弟子の証言(しょうげん)を、彼らがなぜ信じることができなかったのですか。

 ですから、イエスは、嘆かれます。

「『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。[メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる回心が、その名によってあらゆる国の人々に宣(の)べ伝えられる]と。』」

 ちなみに、この場面の並行箇所(かしょ)つまりクレオパともう一人の弟子が、復活のイエスにお会いできるために、「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみ受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された(同上24:25-27)。」という弟子たちの体験は、ミサの前半の「ことばの典礼」ではないでしょうか。

 続いて、これら二人の弟子たちが、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった(同上24:30-31)。」と言う体験こそ、ミサの後半「感謝の典礼」ではないでしょうか。

 わたしたちも、弟子たちのように、まずお互いに不信感を抱いているだけでなく、聖書全体にわたってつまり、A年、B年、C年の三年のサイクルでみことばを聴いているのですが、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」生涯かけて学び続けなければ、せっかくミサに参加しても、復活のイエスにはお会いできないことになるのではないでしょうか。

 ちなみに、第二バチカン公会議の「典礼憲章」において次のような決定がなされました。

「神のことばの食卓がいっそう豊かに信者に提供されるために、聖書の宝庫がより広く開かれなければならない(同上51項)。」と。

 さらに教皇フランシスコは、みことばの学びの必要性を次のように強調なさっておられます。

「みことばの学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同での霊的読書を促す(うなが)ことが求められています(「福音の喜び」175項)。」と、宣言しておられます。

 わたしたちも、共にミサをささげる度(たび)ごとに、復活のイエスのお会いできるように共に祈りましょう。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240414.html