復活節第2主日(神のいつくしみの主日)・B年(24.4.7)

「見ないのに信じる人は幸いである」

心も思いも一つにし、一人も貧しい人がいなかった(使徒言行禄4:32;34参照)

  ちなみに、今日の第一朗読の出だしのことば「心も思いも一つにし」ですが、ガクタン司教さまの司教叙階記念カードのタイトルにほかなりません。

 それでは、福音史家ルカが、編集したこの最初期の教会の実像を確認して見ましょう。

 まず、冒頭で、ルカは、当時の教会共同体の特色を次のように強調しています。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだという者はなく、すべてを共有(きょうゆう)していた。」と。

 実は、すでに、この言行禄の2章44節と45節で次のように初代教会の実態が報告されています。

「信者たちは皆(みな)一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」と。

 ところで、この分かち合いの精神は、今日(こんにち)、日本社会のおいても、非常に具体的な方法で実施されていると言えましょう。

 その一つの事例ですが、認定NPOグッドネーバーズ・ジャパンは、国内外40ヵ国以上で子供たちを、「一日33円の支援がひとり親家庭の4世帯分の食品に」という支援活動を続けています。

 つづいて、ルカは最初期の教会共同体の使徒的活動を次にように伝えています。

「使徒たちは、大いなる力をもって主の復活を証(あか)しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」と。

 ちなみに、ここで言われている「使徒たちの足もとに置き」ですが、使徒たちがいかに尊敬され、大いなる権威をもっていたかが示されていると言えましょう。

 とにかく、このように奉納(ほうのう)されたお金が、それぞれの必要に応じて分配されていたので、結果的に「一人も貧しい人がいなかった」共同体になったのではないでしょうか。

 まさにキリストの体である教会のあるべき姿を、証(あかし)できたといえましょう。

 

世に打ち勝つ勝利それはわたしたちの信仰です(一ヨハネ5:4参照)

  次に、今日の第二朗読を振り返ってみましょう。

 今日の個所は、ヨハネ共同体でしたためられたヨハネの第一の手紙5章の冒頭で語られる世に勝つ信仰宣言に他なりません。

「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。・・・神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。」

 まず、ここで言われている「神から生まれた者」という極めて大胆な表現ですが、実は、同じヨハネの手紙に次のような宣言があります。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです(同上4:7-8)。」 

 ちなみに、ここで言われている「世」ですが、ヨハネ文書においてはまず、救いの対象としての世があります。例えば、ニコデモとの対話で、次のように宣言されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子(おんこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子(おんこ)によって世が救われるためである(ヨハネ3:16-17)。」と。

 ところが、別の文脈では、次のような大変厳しい勧告(かんこく)になっています。

「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、すぎ去っていきます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます(一ヨハネ2:15-17)。」

 まさにこの世的な強力な勢力に打ち勝って、純粋な復活信仰にしっかりと踏み止まることが必要ではないでしょうか。

 

父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなたがたを遣わす(ヨハネ20:21c参照)

 それでは、今日の福音ですがヨハネが伝える主が復活させられた当日の出来事と、その八日の後(のち)にも弟子たちに再び現れてくださった復活の主を、いとも感動的に描いています。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」と。

 ヨハネによれば、復活の主が最初に現れてくださったのは日曜日の朝、なんとマグダラのマリアにですが、今度はその日の夕方です。初めてなんと弟子たちが集まっているところに現れてくださったというのです。

 とにかく、ヨハネはその時の弟子たちの怯えて隠れていた様子を克明(こくめい)に描いています。

 ところが、彼らとは極めて対象的に、罪と死に打ち勝たれた復活の主が、まず、勝利宣言をなさいます。「あなたがたに平和があるように」と。しかも、その平和宣言をくりかえされ、さっそく弟子たちを宣教に派遣なさいます。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和がるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」と。

 ちなみに、近年(きんねん)、教皇フランシスコは、しきりに「出向いて行く教会になるように」と、次のように呼びかけておられます。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと出て行くようにという召命(しょうめい)を受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という呼びかけを聞いて、イスラエルの民を、約束の地に導きました。今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』ということばは、教会の宣教の絶えず新たにされる現場とチャレンジとを示しています。皆がこの新たな『出発』に呼ばれています。・・・つまり、自分にとって居心地のいい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです(「福音の喜び」20項)。」と。

 教会が、聖霊降臨の主日まで、50日かけて復活の主日を「大いなる主日」として、祝い続けるのは、「出向いて行く教会になる』ために、回心し続けることではないでしょうか。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240407.html