復活節第6主日・B年(24.5.5)

「互いに愛し合いなさい これがわたしの命令である」

 聖霊の賜物(たまもの)が 異邦人の上にも注がれるのを見て大いに驚いた(使徒言行10:45参照)

 まず初めに、今日の第一朗読ですが、復活節にちなんで使徒言行禄の10章からの抜粋でありますが、今日の個所は、なんと「異邦人が異言(いげん)を話し、また神を賛美しているのを、聞いた」ことに、大いに驚くという最初期教会の宣教のあらたな展開に他なりません。

 実は、過越祭から数えて50日後の五旬祭(ごじゅんさい)にマリアを中心にエルサレムに集まっていた使徒たちに聖霊がくだり、教会が誕生したのですが、その最初期のキリスト共同体は、ペトロそして異邦人の使徒パウロを中心に目覚ましい宣教の歴史を刻み始めました。

 この初代教会は、最初の段階では、おもにユダヤ人たちに集中的に働きかけ、勢力的にその宣教活動を進めたのですが、今日(きょう)の場面では、なんと異邦人つまり割礼を受けていない人々にも、初めて宣教し洗礼を授けることができたことの感動的な報告にほかなりません。

 実は、異邦人の地方である地中海沿岸の町カイサリアにおけるペトロの体験ですが、なんとローマ軍イタリア隊の「百人隊長コルネリウスは迎え出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。『お立ちください。わたしもただの人間です。』そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。『あなたがたもご存じのように、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れた者とか言ってはならないと、お示しになりました(同上10:25-28)。・・・』」

 続いて、コルネリウスが見た次のようなヴィジョン(幻視)を説明します。

「四日前の今ごろです。わたしが家で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コリネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前で認められた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。・・・』それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じなったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです(同上10:30-33)。」と。

 ここで、今日の個所の34節に続きます。

「ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れ敬い正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」と。

 この最後のくだりですが、私たちに語られたこととして、あえてイエスのお言葉に言い換えるなら、次のようになるのではないでしょうか。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う人が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』(マタイ7:21-23)」と。

 ところで、今日の個所の後半において、異邦人たちが、洗礼によって聖霊をも注がれたことが、次のように確認されています。

「ペトロが話し続けている一同の上に聖霊が降(くだ)った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物(たまもの)が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言(いげん)を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。」と。

 当時、最初に福音が宣(の)べ伝えられたのは、割礼(ユダヤ教への入信式)を受けていたユダヤ人たちでしたが、特にパウロが宣教の第一線で活躍するようになってからは、割礼(かつれい)を受けていない異邦人も福音宣教の対象になり始めたというのです。

 

あなたがたが出かけて行って実を結びその実が残るようにと(ヨハネ15:16c参照)

 次に、今日の福音ですが、先週に引き続き、最後の晩餐(ばんさん)の席上(せきじょう)、イエスが切々と語られた告別(こくべつ)説教の第二部で話されたぶどうの木とその枝の感動的な個所にほかなりません。ですから、イエスは次のように強調なさいます。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も、わたしの掟(おきて)を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」と。

 つまり、わたしたちも、この御父と御子の愛の絆(きずな)につながって行くことが、できるというのです。

 ちなみに、イエスは、この告別説教で、互いに愛し合うことの大切さを、次のように強調なさいます。

「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と。

 続いて、イエスに結ばれている弟子たちの共同体は、愛の掟(おきて)を人々に守るように宣教するための派遣の共同体であることを、次のように強調なさいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命(にんめい)したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と。

 ですから、このような大変重要なお言葉を、私たちが、共同体ぐるみで真剣に受け止め、それを実践する以外に私たちの歩む道はありません。

 ですから、教皇フランシスコは、近年、情熱的に次のように呼びかけておられます。

「神のみことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力が常に現れています。アブラハムは新しい土地へと旅立つようにとの召命(しょうめい)を受け入れました(創世記121:1-3参照)。モーセも、『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3:10)という神のご命令を受けて、イスラエルの民を約束の地に導きました(出エジプト3:17参照)。・・・わたしたち皆が、その呼びかけに応えるように呼ばれています。つまり、自分にとって居心地の良い場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられているすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです(『福音の喜び』20項参照)。」と。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st240505.html