「平和を求めるミサ」26年8月9日 ・日本カトリック平和旬間(8月6日~15日)A年(26.8.9)

 今日(こんにち)の世界において、至る所で続いている戦争を、フランシスコ教皇は、すでに第3次世界大戦が、散発的に始まったと断言なさいました。事実、わたしたちはまさに戦争の時代に生きているのではないでしょうか。

 ですから、イエスは、すでに、2020年前、山上の説教において、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と、強調なさいました。

 このイエスの切なる呼びかけに、お応えするために、まず、紀元前8世紀にユダ王国で、活躍した預言者イザヤの平和実現の次のような預言に耳を傾けましょう。

「来るべき時に、

 主の神殿の山は山々の頂(いただき)として固く立てられ、

 いかなる峰(みね)よりも高く上げられる。

 すべての国は川のようにそこに向かう。

 多くの民が来て言う、

 『さあ神の家に上ろう』。

 まことに、教えはシオンから、

 主のことばはエルサレムからでる。

 主は、諸国の間を裁き、多くの民の仲裁を行われる。

 彼らはその剣(つるぎ)を鋤(すき)に、槍(やり)を鎌(かま)に打ち直す。

 国は国に向かって剣(つるぎ)をふりかざすことなくもはや戦うことを学ばない(イザヤ2:2-4)

  この素晴らしい平和実現の預言は、すくなくとも段階的に、2017年7月7日の国連本部の会議場で、「核兵器全面禁止条約」が、122カ国・地域の賛成で可決されたときではないでしょか。

 実は、この条約の成立に向けてまさに国際レベルで活躍なさったのは、広島で13歳のとき被爆したサーロー節子さんにほかなりません。

 ですから、2017年12月10日、この条約に対しての「ノーベル平和賞」の受賞式において、節子さんは、次のように語られました。

 「ICAK(核兵器全面禁止条約)」の運動に関わる卓越(たくえつ)したすべての人たちを代表して、ベアトリスとともにこの賞を受けることは、大変な栄誉です。核時代を終わらせることはできるのだ、という大きな希望を、皆さん一人一人が私に与えてくださっています。

 わたしは、広島と長崎の原爆投下から奇跡的な偶然によって生き延びた被爆者の一人として語りたいと思います。70年以上にわたって、私たち被爆者は核兵器の完全廃絶に向けて取り組んできました。

 世界中で、このような恐ろしい兵器の生産や実験による被害者たちと団結してきました。・・・

 私たちは被害者であることに甘んじてはいません。世界が炎に包まれて世の終わりを迎えることや、汚染にむしばまれて行くことに対して、見過すことを拒んだのです。大国と呼ばれる国々がわたしたちを核の夕暮れからさらに核の闇夜へと無謀にも引きずり込もうとするのを、恐怖の中で見つめることを拒んだのです。核兵器と人類は共存できないのだと。・・・

 世界中のすべての国の大統領と首相に懇願します。この条約に参加してください。核による滅亡の脅威を永久になくしてください。

 13歳の少女だった私は、煙が上がるがれきの下で生き埋めになりながら、力の限り、光に向かって、前に進みました。そして生き延びました。今のわたしにとっての光は、核兵器禁止条約です。この会場にいるすべての皆さん、並びに世界中の皆さんに向けて、広島の、がれきの下で聞いたこの言葉を繰り返したいです。『諦めるな、前に進め。光が見えるだろう。それに向かって這って行け』。」。

 

 次に確認すべきことは、パウロがエフェソの教会に宛ててしたためた手紙の次のような宣言であります。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ばされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

(エフェソ2:14-18)             

 次に、イエスが復活させられた当日、隠れていた弟子たちに向って平和宣言をなさった場面をふり返ってみましょう。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言ってから、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように、父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。・・』(ヨハネ20:19-22)。」。

  罪と死に打ち勝たれて獲得したキリストの平和を、多くの人々と分かち合うために、私たちは派遣されているのです。

 つまり、わたしたちは福音化のためにキリストの平和を、告げ知らせるために、派遣されているのです。

 この派遣について、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、つぎのように呼びかけておられます。

 「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現われています。アブラハムは、新しい土地へと出て行くようにという召命を受け入れました。モーセも、『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』と言う神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。神はエレミヤに命じます。『わたしがあなたを、だれの所へ遣わそうとも、行け』。」。

 今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』ということばは、教会の宣教のつねにあらたにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれているのです。・・・わたしたち皆が、その呼びかけにこたえるように呼ばれているのです。つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人々に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです(20項)。」。

 ですから、わたしたちの教会は、内輪向きの仲良しグループになるのではなく、ミサの最後の派遣の祝福「行きましょう。主の福音を告げ知らせるために。」と、まず、それぞれの家庭、職場、そして地域社会で、キリストの平和を告げ知らせなければなりません。教皇フランシスコは、繰り返し強調なさいました。「出向いて行く教会になりなさい。」と。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2026/st260809.html