「神のものは神に」
さっそく、きょうの第一朗読ですが、預言者イザヤが、何とペルシャの王キュロスを、メシアとして起用することを、預言している個所にほかなりません。
ちなみに、聖書においてメシアという称号が、使われるのは、皇太子が王に即位するとき、また預言者として任命されるとき、さらに祭司になるときに、オリーブ油を、頭に注がれることに由来する「油注がれて者」という意味であります。
しかも、今日のイザヤ預言においては、何と異邦人のペルシャ王キュロスを、メシアとして起用しイスラエルの民を、解放するという驚くべき預言にほかなりません。
「主は、こう言われる。
わたしは彼の右の手を固くとり
国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
わたしは彼の右の手を固く取り
国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない。」
この預言は、イスラエルが罪にため、戦勝国の首都バビロンの近郊に、半世紀にわたって強制移住させられていたのが、6世紀のバビロン捕囚の終りにキュロスによって解放されるという希望に満ちた預言といえましょう。
ちなみに、このキュロス王ですが、オリエント世界に台頭したペルシャ王(559-530在位)であり、まさに世界帝国を築き、紀元前539年には、バビロニア帝国の首都バビロンを征服し、イスラエルの民にも宗教的な自由を認め、バビロンから解放したまさにメシアにほかなりません。
とにかく、全能である主なる神は、異邦人をもメシアとして起用し、ご自分の民イスラエルを、救われるというのです。
次に、今日の福音ですが、マタイが伝える、イエスとファリサイ派との権能についての論争の場面にほかなりません。
「『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。・・・ところで、どうお思いでしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』 彼らがデナリオン銀貨を持ってくると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。
『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」。
このように、イエスは、まさに世俗権力の神格化を否定し、国家は神によって立てられている限り、これに従うべきであること確認なさいます。
ですから、国家の正当な権力に当然従うべきですが、もし、権力者が、間違った方向に政権を使うならば、当然、反対の意思表示すべきことは、言うまでもありません。
とにかく、今日の世界は、まさに反福音的な経済・軍事大国に牛耳られているので、キリスト者は、福音的な世界の構築に向かって一致団結して進むべきではないでしょうか。
かつて、教皇フランシスコがいみじくも、「今や、第三次世界大戦は、散発的に始まった」と、宣言なさいました。
ちなみに、世界平和についての最も聖書的な宣言は、パウロのエフェソの手紙において極めて明確に、次のように書かれています。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊にむすばれて、御父に近づくことができるのです(エフェソ2:14-18)。」。
以前、韓国のカトリック教会を訪問する機会があたえられたときです、田舎の小さな小教区での祈りの分かち合いに参加する恵みが与えられました。
分かち合いが終わったとき、年配の御婦人(日本の植民地時代の体験者)が、「今日、こうして日本人の神父さんと一緒に祈ることができたので、近くて遠い国、韓国と日本との間にあった心の壁をイエス様が崩してくれました。神に感謝。」
真の平和は、核兵器によっては、決して実現しません。ところが、軍事大国(北朝鮮を含め)は、核兵器によって平和が実現するという迷信を信じています。
実は、かつて、日本を訪問なさったフランシスコ教皇は、2019年11月24日、広島平和記念公園で、世界平和について次のように切々と訴えられました。
「わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと信じていました。あのすさまじい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い起こし、現代社会に人々の願いと望みを胸にしつつ、じっと祈るためです。特に、平和を望み、平和のために働き、平和のために自からを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びをも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代にも、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。わたしは謹んで、声を発しても耳を貸してもらえない人たちの声になりたいです。現代社会が置かれている増大した緊張状態、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家(地球)を保護する能力の著しい欠如と、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる継続的なあるいは突発的な武力行使を、不安と苦悩を抱いて見つめる人々の声です。
確信をもって、あらためて宣言します。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。」
このような、教皇フランシスコの切なる願いを、全く無視して核兵器の抑止力という神話にまどわされて、むしろ、核兵器の恐ろしさをますます現実的にしている指導者たちに逆らって、わたしたちはキリストの平和を、この地球上だけでなく、宇宙にいたるまで実現させる重大な責任を担っているのではなしでしょうか。
今、国際的な話題になっている国際刑事裁判所々長の赤根智子氏にように、わが身の危険をもかえりみず、トランプ大統領に有罪判決をくだされた勇気に見習いたいです。
毎週、この地球と宇宙にも真の平和をもたされるイエス、キリストを、御父に真の生贄として捧げるわたしたちは、ミサによって派遣される、それぞれの家庭、職場、そして地域社会において平和の君イエス・キリストを伝える責任を担っているのではないでしょうか。
ですから、司式司祭は、「行きましょう。主の福音を告げ知らせるために。」と、参加者全員を派遣するのです。
ちなみに、教皇フランシスコは、その使徒的勧告「福音の喜び」によって、教会が「出向いて行く教会」になることを、次のように熱く呼びかけておられます。
「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現われています。アブラハムは、新しい土地へと出掛けるという召命うけいれました。モーセも、『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。・・・今日,イエスが命じる『行きなさい』というご命令は、教会の宣教の常に新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。わたしたち皆が、この呼びかけにこたえるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地の良い場所から出て行って、福音の光を必要としている社会の隅に追いやられているすべての人たちに、それを届ける勇気を持つよう呼ばれています(20項)。」

https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2026/st261018.html