年間第20主日・A年(26.8.16)

「あなたの信仰は立派だ」

  まず、初めに、今日の第一朗読ですが、第三イザヤが、捕囚後、紀元前6世紀に故国に帰還したイスラエルの民に向けて、次のような希望に満ちた預言を宣言してます。

「主のもとに集まって来た異邦人が

 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり

 安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら

 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き

 わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。

 彼らが焼き尽くす献げ物をいけにえとしてささげるなら

 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。

 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」。

 罪のため半世紀にわたって戦勝国の首都バビロンの近くのケバル川のほとりに強制移住させられた捕囚民は、ようやくペルシャの王キュロスによって解放され、故国に帰還できたという混乱期に、なんと救いは、異邦人にまで広がって行くという希望のメッセージにほかなりません。

 ただし、そのために、まず、「安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら」という厳しい条件を果たさなければなりません。

 ここで、言われている「安息日」ですが、創世記で、次のように定められた次のような大切な掟と言えましょう。

「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された(創世記2:2-3。」。

 続いて、この掟を忠実に守るなら、「聖なる山に導き、わたしの祈りの家の喜びに連なることを許す。」だけでなく、なんと「彼らが焼き尽くす捧げ物をいけにえとしてささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。」と、約束なさいました。

 このように、捕囚という試練が、神の救いが異邦人にまで広げられるきっかけとなったという救いの歴史の積極的な展開に注目すべきではないでしょうか。

 実は、今日(こんにち)の日本の教会が、少子高齢化という厳しい現状に立たされて、子ども、若者の姿が見えない状態に追い込まれています。

 ですから、この厳しい試練を乗り越えるための新たな神の導きを確認すべきではないでしょうか。

 それは、預言者イザヤが、異邦人が「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり」と、命じられたように、すでに洗礼を受けた子ども、若者たちの信仰の再教育つまり、みことば教育を、始めることではないでしょうか。

 実は、この家庭でのみことば教育は、すでにモーセの時代に、次のように命じられていました。

 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。

 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい(申命記6:4-7。」。

 

 つぎに、今日の福音ですが、マタイが伝えるイエスの異邦人の地域での活躍を報告している感動的な場面といえましょう。

 とにかく、マタイの宣教計画は、まず、ユダヤ人から始めるという原則のもとづいていたことが、確認できます。つまり、

「『子どもたちのパンを子犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」。

 確かに、異邦人を「子犬」と言って差別していたマタイの教会の意識を、変えて、救いは、民族の壁を越えたすべての人々に、広がって行くというイエスの宣教命令は、福音書の最後で、次のように確認されています。

「イエスは近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(同上28:18-20。』」。

 ですから、この極東の最果ての日本にも、すでに、1549年の815日、聖フランシスコ・ザビエルの一行が、鹿児島に上陸し、宣教活動を開始したのであります。

 しかしならが、急速に成長した日本のカトリック教会は、迫害という厳しい試練を体験しなければなりませんでした。

 とにかく、250年間、一人の司祭もいなかった日本のカトリック教会は、地下教会としての信仰共同体によって信仰を伝え続けたとうまさに奇跡的な実績があります。

 しかも、この潜伏キリシタンたちが、厳しい禁教令の最中(さなか)、信仰を次世代へと伝えることが出来たのは、信仰共同体が育てられていたからです。

 つまり、面向きは、それぞれのお寺に所属している檀家として、実は、隠れたキリスト共同体が、信徒のリーダたちの指導によって確実に育てられていたからではないでしょうか。

 ですから、先細りの今日(こんにち)の私たちの教会も、それこそ原点に立ち返って宣教する本来の教会になるという根本的な刷新がなくてはなりません。

 しかもこの福音化の本来の使命に立ち帰るのは、まず、家庭からではないでしょうか。具体的には、各家庭でみことば教育を実施することですが、そのためには、まず親たちのみことば教育が、各教会で開始されなければなりません。ですから、各家庭が、みことばによって福音化されるときに、続いて社会の福音化に発展できるのではないでしょうか。

 この根本的な教会の回心は、すでに197410月のシノドスの、「現代世界の福音化」という聖パウロ6世の使徒的勧告で、つぎのように強調されています。

「『わたしたちは、すべての人々に福音を()べ伝えることが、教会の第一かつ本来の使命であることを、ここに再び確認したいです。』それは、今日(こんにち)、著しく変化しつつある社会では、命令かつ使命です。福音を伝えることは、実に教会自身の本来の本性に深く根ざした最も特有な恵であり、召命です。教会はまさに福音を述べ伝えるために存在しています。すなわち、神のことばを説き、教え、恵を与える手段となり、罪人を神に立ち返らせ、キリストの死と栄光ある記念であるミサ聖祭によってキリストのいけにえを永続させるために教会は派遣されているのです14項)。」。

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2026/st260816.html