「主に立ち帰るならば」
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる(イザヤ55:7b-c)。
神の救いの歴史において、罪のため半世紀にわたって戦勝国の首都バビロンの近郊に、強制移住させられていたイスラエルの民は、なんと、ペルシャの王キュロスによってようやく解放されます。
ちなみに、この紀元前6世紀の捕囚地で活躍した預言者イザヤは、その預言の前半において、新しい出エジプトとして、また新しい創造として、バビロンからの解放を、力強く預言しました。
しかも、その後半においては、シオンへの慰め、さらに諸国への光となるべき使命をも預言しています。
そのためには、まず、「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」と、しきりに心からの回心を、呼びかけています。
しかも、この回心が、まさに神の思いと、道に立ち帰る体験であることを、強調しているのではないでしょか。。
なぜなら、罪とは、意図的に神の思いと、神の道から離れて、自分中心に生きることにほかならないからです。
ですから、この回心には、神の思いと、道が何であるのかの、再確認が必要なのは言うまでもありません。
では、一体、神の思いと道とは何なのでしょうか。
それは、モーセが強調する神の愛に生きることではないでしょうか。
実は、モーセは、約束の地、乳と蜜の流れる土地を、ヨルダン川のはるか彼方に眺めながら、次のように力強く命じます。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くして、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい(申命記6:4-5)。」
ちなみに、ヨハネは、この愛こそが、私たちの信仰の要であることを、次のように、強調しています。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う〈いけにえ〉として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです(一ヨハネ4:7-12)。」。
続いて、イザヤは、今日の預言の後半で、次のように強調しています。
「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いをあなたたちの思いを、高く超えている。」
実は、イエスは、最後の晩餐の席上、告別説教の最初に、次のように強調なさいました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(ヨハネ14:6)。」。
まず、このような大胆な宣言自体が、何よりもイエスが神であることを強調していると言えましょう。
つまり、わたしは、何々であると言う自己宣言は、神的自己宣言にほかなりません。
ですから、告別説教は、次のように発展させておられます。
「『あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、既に父を見ている。』フィリピが、『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、《わたしに御父をお示しください》というのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられると父がその業を行っておられるのである。父がわたしの内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい(同上14:7-11)。』」。
このように、御父と御子とは、まさに親密に一致しておられることを強調なさっておられるのではないでしょうか。
ですから、パウロは、私たちの教会こそが、この御父と御子の聖霊の交わりを生きる信仰共同体であることを、次のように強調しています。
「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵が与えられているのです。そこで、
『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた』と言われています。
『昇った』というのですから、低い所、地上に降りて来られたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇れたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、ひき回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです(エフェソ4:5-16)。」。
このように、わたしたちの共同体が、日々の回心によって、着実に成長できるように共に祈りましょう。