主の公言・A年(1996.1.6)【マタイ2:1-12】

メシアの星に導かれて

主を探し求める

今年も、主の導きに日々従う一年にしたい。そのために東方の学者たちのように絶えず主を探し求めなければならない。今年が本当に良い年になるのは、主の示す道を忠実に歩むからである。

「王としてお生まれになった方は、何処におられますか」と尋ねたように、主のみ心を探さなければならない。

「求めなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる」(マタイ7:7)きっと主は現実のただ中で語ってくださる。だから絶えず祈らなければならない。

祈りはまず主に聞くことだから、今年も予測しないことや予期しないことも起こるであろう。そのひとつひとつの出来事を通して主は語られるのである。

 

主を拝むとは

はるばる遠い国から訪ねてきた学者たちとは対照的に、なぜヘロデ王が「不安を抱いた」のだろうか。自分の権力を守りたいだけでなく、神のみ旨とその実現を受け入れたくない傲慢だったからではないか。学者たちは「拝みにきた」のである。礼拝とは神に従うことの信仰告白にほかならない。自分を神に捧げる生き方とならねば真の礼拝とは言えない。

礼拝によって神に受け入れられる自分に変えられるのである。

「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ心新たにして自分を変えていただき、何が神のみ心であるか、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ12:1-2)

 

み言葉に導かれて

「あなたの御言葉は私の道の光、私の歩みを照らす灯(ともしび)。御言葉が開かれると光が射し出で無知な者にも理解を与えます(詩編119.105.130)

今年また与えられる星は、み言葉である。かならず必要な時に、最適切な御言葉をいただけるはずだ。困難や、苦しみ、また解決が見つからないような問題に遭遇しても、いつも信頼をもってみ言葉を求め、それに従うことこそが今年一年を真によい年にしてくれる。もちろんみ言葉はマリアが体験したように、戸惑いや恐れをも起こさせることもある。信頼を持って聞きただし、その内容を確認することが大切だ。神が何を望み、何を勧め、何を計画しておられるのかを正確に理解することである。そうしてこそ「お言葉通り、この身になりますように」(ルカ1:38)と、まさに「アーメン」と信仰告白ができるのである。

「星を見て喜びにあふれた」彼らのように、恵みに満ちた年になるように祈りたい。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。