年間第2主日・A年(1996.1.14)【ヨハネ1:29-34】

見よ、世の罪を取り除く神の小羊

イエスをあかしする

洗礼者ヨハネが自分の弟子に、イエスをあかしした。(ヨハネ1:35-37)

あかしとは自分をお手本として示すのではなく、イエスを指し示すことではないか。ギリシア語では「あかし人」という言葉は「殉教者」をも意味する。殉教者ステファノが聖霊に満たされてイエスを見たように(使徒言行録7:55参照)まず、イエスに出会うことがあかしの出発点である。そして命をかけてイエスを示すので、殉教にも至るのである。

「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして私の証人となる。(使徒言行録1:8)キリスト者になることはイエスのあかし人となることなのだ。しかも聖霊をいただいているから、あかしができるのである。

 

世の罪を除く神の小羊

洗礼者ヨハネは、イエスを誰だと思ったのか。ここでは「見よ、世の罪を取りのぞく神の小羊だ」と断言している。このとらえ方の背景には、「苦しむしもべ」の姿があるのではないか。「彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためだった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。(イザヤ53:5-11)

特に強調されている「彼の罪を取りのぞく」ということを、どこまで理解しているだろうか。個人的な罪だけでなく、この世に蔓延しているすべての悪と罪を清め、神の愛と慈しみの支配を、あらゆる次元に浸透させてくれるお方がキリストなのだ。その方法はご自分の命を捧げるまで苦しまれ、罪人として殺されることであった。

 

打ち砕かれた霊

イエスの歩まれた道に近づいてこそ、初めて主をあかしできるのではないか。聖霊によって自分自身を変えていただく必要がある。かたくなな自我が打ち砕かれ、イエスが示してくれる生き方を実践できるのは、まさに聖霊のおかげなのだ。

真のあかし人にしていただくために、詩編は素晴らしい祈りを教えてくれる。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは悔いられません」(詩編51:12-13.19)

キリストを探し求めている人たちに、主を正しくあかしできるのは、自分の努力によるのではない。むしろ自分自身が打ち砕かれ、惨めさと弱さを受け入れ、自分を無にして神に委ねる道を歩むことなのだ。これこそが、聖霊によるあかしだ。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。