年間第3主日・A年(1996.1.21)【マタイ4:12-23】

神の国が近づいた 回心せよ

福音の光が輝く

「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」

このイザヤの預言は、イエスの宣教の地ガリラヤで実現した。神の愛の支配(神の国)が始まったという喜ばしい知らせは、死、飢餓、弾圧、差別などに苦しむ人々に告げられねばならない。神の愛を最も待ち望んでいる人たちにこそ、福音の光が真っ先に照らされるのだ。

救い主がこの現実の世界に来られたことを信じ、祝ったのだから、自分の生き方を変えなければならない。

 

福音によって回心する

神の愛の支配がイエスによって新たに始まったので、生き方を根本的に変えるのが回心である。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という主の呼びかけは、マルコでは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)となっている。イエスによって神の支配が最高潮に達したので、回心できるのである。自分の努力で回心するのではなく、神の愛の力によって根底から変えられる体験である。この回心をパウロは、次のように強調する。

「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ真理に基づいた正しく清い生活を送るように・・・」(エフェソ4:22-24)

 

イエスに従う

イエスの福音は、それを伝える弟子を求める。だからイエスは宣教の最初から弟子たちを選ばれた。地位や能力のあるエリートたちでなはく、無名の漁師たちが最初の弟子となった。

彼らを「ご覧になった」のはイエスなのだ。こちらからイエスを探し弟子にしてくださいと名乗るのではない。イエスが見つけてくださるから、自分は貧しく弱くとも弟子にしていただけるのだ。

この愛に満ちたイエスのまなざしにまず気づくことが肝心である。決定的に引きつけるイエスの招きに、こたえざるを得ない心境である。

 

人を捕る漁師になる

すべてをおいて従えるのは自分の力ではない。実にイエスの素晴らしさに魅了されたからついていけるのだ。パウロも同じような体験をした。

「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今ではほかの一切を損失とみています」(フィリピ3:8)しかもイエスの弟子になるのは、新しい使命をいただくことである。

「わたしについてきなさ。人間を捕る漁師にしよう」つまり人々が神の愛に捕らえられるように、かわりの輪を広げることである。イエスによって示される父なる神の愛をあかしすることで、人を神のもとに連れて行くのが福音宣教である。特に福音のいやしを必要としている人たちに神の愛を、あかししながら弟子にさせられる。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。