年間第4主日・A年(1996.1.28)【マタイ5:1-12】

貧しい人は幸いである

神がくださる幸い

イエスは全く新しい幸せを示された。普通考えられている物質的豊かさでもなければ、この世的な成功や生活の安定でもなければ、まして自己満足でもない。

実の幸せは、神を信頼する者に神がくださる祝福なのだ。だから迫害の最中にも神から与えられる平安と勇気、希望に支えられる充実感でもある。

「心の貧しい人々は幸いである」とイエスは、まず神に対して全面的に心を開くことの大切さを教えてくださる。特に物質的に貧しければそれだけ神に信頼し心からより頼むことができるから、幸せなのだ。

「天の国はその人たちのものである」まさに神の愛と慈しみの支配はひたすら神に心を開いている人々に実現するのである。つまり神の愛を受けるための最もふさわしい心境にあるから幸せなのだ。たとえ悲しみのなかに投げ込まれていても、かならず神からなぐさめをいただけるのである。

 

永遠の愛を受け継ぐ

ヘブライ語の「貧しい人」はギリシャ語では「柔和な人」と訳されている。

「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう」(詩編37.11)と既に歌われている。抑圧されたり差別されたりするなかで、ひたすら忍耐している人たちこそが貧しい人なのだ。

しかしこのような貧しい人たちが、真っ先に神の命すなわち永遠の命にあずかれるのである。さらに最も小さき兄弟にかかわることによってのみ、神の国を受け継ぐことができるのだ。

「私の父に祝福された人たち、天地の創造の時からおまえたちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25:34)

 

神からの平和を築く

神の子になる基本条件は、真の平和をこの地上に実現させるために尽くすことである。もちろんキリストによって打ち立てられる平和のために働くのだ。だから神の子の第1の使命は、人々に平和を告げ知らせることである。

「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるためにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼に与えられる」(マタイ10:12-13)

 

迫害の中の幸せ

既に迫害を経験していたマタイの共同体に対して、神から確実に幸せが与えられる、と励ましが与えられた。神の義のため、神に忠実に生きようとするなら、いつの時代にも迫害を受けなければならない。その時こそ、神によって支えられる力をいただけるし、素晴らしい恵みにあずかれるのである。真の幸せは神からしか与えられないことを、迫害の最中で実感できるのではないか。

苦しみがないから幸せなのではなく、神のためにたとえ残酷な苦しみにあっても幸せにさせていただける。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。