あなたがたは地の塩 世の光である
地の塩である
自分の信仰が、この世にとってどんな意味と価値をもっているのかを、主がはっきりと教えてくださる。まず、信仰は自分のためだけではない。
「地の塩である」とは、信仰の根本的なあり方なので、自分の方から決めることではない。まして主は、できるなら塩になりなさい、と勧めておられるのでもない。
「地」すなわちこの世界に対して、塩の役割を果たし続けるのが信仰なのだ。ちょうど塩が味付けになくてはならないように、また腐敗を防ぐ大切な役割を果たすように、信仰はこの世のためにどうしても必要である。
「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)とアブラハムが信仰に召されたように、まさに信仰とはすべての人のために自分をささげる生き方である。
人々に、踏みつけられる
地に派遣された塩の役割を果たし続けなければ、信仰は無用の長物になってしまう。世の人々が塩を必要としているので、その要求にこたえる信仰でなければ全く価値を失ってしまうのだ。しかし塩であり続けることができるのは、主につばがっているからである。
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15:6)
世の光である
「言」(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:4.9)
主に照らされてから光になれるのだ。だから光であり続ける方法はただ一つしかない。
「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊に実を結ぶ。あなた方はわたしにつながっており、わたしの言葉があなた方のうちにいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:5-7)
結ばれているから、しかも、み言葉によって生かされ、いやされ、養われているからなのだ。大切なのは、自分が人々によってあがめられ褒められるのではなく、あくまでも「天の父をあがめるように」なるためである。
信仰のあかしは、「御名があがめられますように」(マタイ6:9)との祈りにつながるものである。主の生き方に反するこの世、強者の論理で歩んできた人類の歴史を根本的に変革し、神の愛の支配があらゆる次元に広がるように、地の塩、世の光として選ばれたのが信仰の恵みにほかならない。
日々主から命の言葉をいただき、主に結ばれ、主と共に御父のみ旨を生きることである。このように信仰によって、人生は変えられるのだ。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。