アーメン・わたしはあなたたちに言う
新しい生き方を示す
モーセを通して与えられた掟(おきて)は、長い伝統の中でさまざまな規則が加えられ、人々は掟の本来の意味を見失っていたようである。だからイエスは神の掟の真意を知らせるだけでなく、全く新しい生き方の基準を、独特な言い方で人々に訴えたのだ。
「アーメン、わたしはあなたたちに言う」ろ律法学者やファリサイ派の教えには見られない権限を持って語られた。(マルコ1:27参照)
「人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」
掟を形式的に守るだけでは、神の愛の支配(天の国)を受け止めることにはならないと、徹底的な生き方の変革を迫られた。どんなことにおいても、絶えず御父の望まれること、勧められること、命じられることに一つひとつ忠実におこたえしていく信仰の生き方を実践してはじめて「まさる」ことができるのである。
既に心で罪を犯す
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心のなかでその女を犯したのである」
行いが掟に反しているかどうかだけでなく、肝心なのは心の姿勢であるし、まず行動に移る前の動機が何かである。イエスが偽善を戒めるだけでなく何事においても徹底して父なる神に従うことを求めておられるのだ。
だからたとえ外面にあらわれなくても、どんな思い、考え、望みを抱いているのか。まさに心の次元から根本的に問われているのである。
誠実な言葉と行動
誓うという習慣はあまりなじみがない。ここで問われているのは、どんな誓いをするかではなく、イエスは信仰の徹底した生き方を要求しておられるのではないか。どっちつかずの考えや選択ではなく、いつも忠実にかつ誠実に神に従う道を選び通しなさいと言っておられるのだ。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とにつかえることはできない」(マタイ6:24)
神の示される道、価値、基準、方向、やり方などをいつも正しく選択しなければならない。気をつけないと自分の選択や行動が何に基づいているかを確認しないまま、生活に流され、世間的な価値観で生きてしまう危険に日々さらされているのが現状である。
「それ以上のものは悪から出る」という主の忠告は、自分の態度をあいまいにしておくということだけではなく、神の基準に合わせないままに、ことを済ませてしまうことを、厳しく指摘なさったっておられるのではないか。
日々、主の「わたしは言う」とのお言葉に、忠実に従う生き方こそが信仰なのだ。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。