四旬節第3主日・A年(1996.3.10)【ヨハネ4:5-42】

主よ。渇くことのないように、その水をください

魂の渇きに気づく

 このサマリアの女は、人目をはばかって、だれも来ない真っ昼間に水を汲みに来なければならなかった。しかしイエスがあたかも待っていたかのように、ひとりでその井戸のそばに座っておられた。

 きっと主はこのように、私たちの人生や節目や時宣にかなったときに、待っていてくださるはずだ。

 たしかに「水を飲ませてください」と頼んだのは、イエスの方だ。しかしイエスの喉の渇きは、実は彼女の魂の渇きに気づかせるための、大切なきっかけだったのだ。

 この出会いは、世間の常識を超えたものであった。「ユダヤ人はサマリア仁とは交際しない」し、ユダヤ人男性が、よりによてサマリア人女性にものを頼むことなど、普通は考えられない。しかしイエスの行動は、このような枠にとらわれない。特に見失った一匹の羊を捜す羊飼いのように、必ず来てくださる。(ルカ15:1-7参照)

 

生ける水をください

 すでに五度も結婚し、しかも六人目の男性と同せいしている彼女の魂は、どれほど飢え渇いていたのか、主に見抜かれたに違いない。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわ出る」

 しかし彼女は自分がどんなにこの命の水を必要としているか、まだ気づいていなかった。だからイエスの方からまず「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と命令したのだ。自分の現実を直視するだけでなく、隠しておきたい恥部をイエスの前にさらけ出さなければならない。

 イエスの前で自分をごまかせなくなった時こそ、実は主との本物の出会いがあるのだ。

「あなたは、ありのままを言ったわけだ」

 私たちは、このような心境にまで達していないのではないか。

 自分のありのままをすっかり主に明け渡すなら、主はどんな罪をもゆるしてくださるし、必ず心の傷をいやしてくださる。主との出会いが、この段階にまで深められるとき、「霊と真理を以て礼拝しなければならない」という主のお言葉を、実践できるように変えられる。

 

イエスを伝える

 それまで人目を避けて生きていた彼女は、このような素晴らしいイエスとの邂逅(かいこう)を体験したので、いきなり宣教者になった。

「その町の多くのサマリア人は『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」

 まだ主を伝えることができないでいる最大の原因は、自分がこの命の水、すなわち聖霊の働き(ヨハネ7:37-39参照)を、体験していなことにあると言えよう。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。