四旬節第2主日・A年(1996.3.3)【マタイ17:1-9】

これは私の愛する子 彼に聞け

 復活への道を示す

「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」

 この主のご変容の背景に、まずシナイ山でのモーセの神との出会いが考えられる。

「山から下った時、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった」(出エジプト34:29)イエスこそは、いわば新たなモーセとして神への道を示すお方である。

 主も自ら「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)とはっきりおっしゃった。

 さらにパウロは、主にしっかり聞き従うなら、神の国の完成のとき、主の栄光の輝きを聖霊によって映し出せると教えてくれる。

「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。(2コリント3:16-18)

 またヨハネが見た復活のキリストの「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1:16)

 だから主はとくにペトロ、ヤコブとヨハネには何よりも復活への道が何であるかを、事前にわかってほしかったのだ。

 この四旬節の恵みをいただき、この道をもっと深く悟らせてもらいたい。

 

日々主に聞き従う

「声が雲の中から聞こえた」

 復活に至る道は絶えず神に聞き従う道である。主ご自身にどこまで忠実に従っているかである。どのように従うのかを、はっきり教えていただいたはずだ。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)

 これ以外の道はない。しかし、どれほど自分の思い、考え、価値観、気持ちや感情に縛られていることか。特に自分に課せられた十字架を避けようとしてはいないだろうか。

 

手に触れてくださる

 思い悩んだり、落ち込んでしまったり、希望を持てなくなるような状態に投げ込まれるときこそ、主が近づいてくださり「起きなさい、恐れることはない」と手を取って、必ず優しく起き上がらせてもらえる。それなのになぜ、いまだに主にではなくほかのものに頼ったり、あてにするのだろうか。

 自分を捨てて主にすっかり委ねるだけでなく、大切なのは主が与えてくださった使命を忠実に生きているかである。この使命を果たしていく中に、主がいつも共にいてくださるから、恐れなくてよいのだ。(マルコ16:20参照)

 福音を主と共に伝えるために、この三人の弟子たちのように、ご変容なさった主にお会いできるのだ。

 その時、私たちの顔も輝く。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。