四旬節第1主日・A年(1996.2.25)【マタイ4:1-11】

誘惑に打ち勝つ

 自分の能力を示す

 四旬節に入り、主の歩まれた試練の道を、確認する恵みの時をいただく。

 悪霊の導きと悪霊の誘惑は、同時進行する。誘惑を受けても聖霊の導きによってそれに打ち勝つならば、信仰はかえって鍛えられる。つまり誘惑が試練に変えられ、信仰によって鍛えられるのである。

 極度の疲労と空腹に苦しみ、全くの無力感に襲われていたイエスに対する誘惑の本質は何か。

「神の子なら」誘惑者の考えによれば、自分の力を当然示すべきなのだ。

 自分の能力に頼り、それを示したいと思うことこそ、まず陥りやすい誘惑である。

「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことを忘れて、自分の能力や、経験、力量に頼り、それを人に示すことで自分を保とうとしてはいないだろうか。この誘惑こそ、まさに神から離れさせられる罠になってしまう。

 

神を試す

 神に対する不信感があるならば、人の歓心を買うために神を試すこともしかねない。

 特に、周りの目を気にするならば、知らず知らず人のうちに人の歓心を買おうとし、自分を認めてもらいたいと思う。

 ひたすら神に信頼しなければ、神の国には入れない。「心の貧しい人は幸いである。天国はその人たちのものである」(マタイ5:3)

 さらに徹底して主に従う姿勢を、パウロが教えてくれる。

「神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし今なお人の気に入ろうとしているなら、私はキリストの僕(しもべ)ではありません」(ガラテヤ1:10)

 

世の権力を求める

 最後の誘惑をルカは次のように描く。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」(ルカ4;6)

 そもそもこの世の権力と繁栄は悪魔の支配下にあることを、どこまで自覚しているだろうか。悪魔が選ぶ人物に、この世的な権力と繁栄が与えられている実態に本当に気づいているだろうか。

 神以外のものに頭を下げ、頼り、おもねながら生きるなら、それは偶像礼拝の罪を犯していることになるのではないか。

 誘惑の本質は、神から引き離されてしまう価値観、考え方、基準、そして生き方なのだ。人間の思いを中心にしてしまって、神の思いを無視することにほかならない。

 だからペトロでさえ主から厳しく戒められた。

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)

 信仰の道には誘惑が伴うが、主が見事に示してくださったように、ひたすら神に信頼し、聖霊の力強い導きと照らしのなかで、ひとつ一つの誘惑に勝てるはずだ。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。