四旬節第5主日・A年(1996.2.24)【ヨハネ11:1-45】

ラザロ、出て来なさい

 死んでも生きる

 イエスの公生活を締めくくる重要な神のみ業(わざ)のしるしが、ラザロの復活である。

しかしこの奇跡がユダヤ人にイエスを殺す決断をさせてしまった。(ヨハネ11:45以下)

「わたしを信じる者は、死んでも生きる」

 まさにこの十字架の神秘を、雄弁に提示してくれる大切な出来事なのだ。つまり苦しみと死を通してのみ復活のいのちに入ることができる。すなわち死はいのちを生み出すのだ。この驚くべき信仰の神秘を深く悟らせていただきたい。

「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」

 きっと自分の人生やまた世界の出来事には、実にイエスの復活の恵みにあずかるためのものがある。苦しみや困難、そして特に死こそが復活のいのちに入る門であることを分からせてくれるのだ。きっとイエスはわざとわたしたちを苦しい目に遭わせるであろうし、死をも与えて下さる。しかし、必ず復活にもあずからせてくださる。

 

共に泣かれるイエス

「イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『ごらんなさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った」

 私たち一人ひとりも主に愛されているので、悲しくつらい時、一緒に泣いてくださるのだ、と同時にイエスこそは、私たちの涙を拭い去ってくださるお方にほかならない。

「主は母親を見て憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(ルカ7:13)

 このイエスの憐れみこそが、さまざまな苦しみと痛みを乗り越えさせる支えとなるだけでなく。必ず復活の栄光へと導いてくださるきずななのだ。

 だからパウロのように「現在の苦しみは、将来私たちに表わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(ローマ8:18)と、根本的な発想転換ができるようにかえられる。

 

いのちの言葉

「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼ばれた。すると死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」

 実にイエスのお言葉はいのちを呼び戻し、吹き込む力を持っている。しかし、この信仰の神秘をどこまで、実感として体験しているだろうか。すでに主は極めて明確に言われたはずだ。

「はっきり言っておく。私の言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなk、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時がくる。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ5:24)

 だから日々信じて主のみことばに聞き従うことによって、すでに復活の命をいただけるのだ。つまり信仰の道とは、まさにみことばによって復活の栄光に至る歩みである。

「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます」(2コリント3:18)

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。