四旬節第4主日・A年(1996.3.17)【ヨハネ9:1-41】  

 

目が見えるようになる

 神の業が現れる

 古今東西を問わず、因果応報の考えはまだ根強く残っている。特に生まれながらの障がいなどは、罪の結果と思われている。

 しかし主はまったく新しい視点でとらえることをはっきりと教えてくださる。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が現れるためである」

 人間の目には隠されている、神の素晴らしいみ業が現れるしるしを、あわれな現実の中に見ることができるか、まさに信仰が問われるのだ。

 

人生の転機の訪れ

 神が遣わされた(シロアム)主にお会いするとき、人生を根底から変えられる天気が訪れる。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰ってきた」

 この感動的な体験は、ただ単に身体的視力の回復にとどまらない。人のお情けに頼って生きてきた人生だったが、イエスと出会ったために初めて自分を神とのかかわりの中で、自己確認できるようになる。「わたしがそうなのです」と堂々と言えるように、見事に神と人の前で自立できた。

 この生まれながらの障がい者は、イエスのことを「あの方」としか思えなかったのが、権力者たちとの対決を通して「あの方は預言者です」と言い切れるまでに強められた。体制に逆らえばそれこそ村八分にされることを百も承知で、自分の体験をあかしできるように成長できたのは、彼の中でのイエスとの出会いがさらに深められてきたことの、何よりにしるしである。

 

み業にしるしを見る

 自分たちの先入観や偏見、またさまざまの知識が、神のみ業を見えなくしている。何も当時のファリサイ派や律法学者たちだけでなく、自分の持っているものの見方や考え方の枠に縛られているなら、イエスを通して示される神の偉大なみ業のしるしに、心の目を閉ざしてしまう危険があるのではないか。

 この生まれながらの障がい者は自分の惨めさと苦しみ、そして屈辱の体験のおかげで、イエスにいやしていただいた。しかも体のいやしにとどまらずに、まさに魂の開眼にまで到達した。

 それに対して、権力を握り何でも知っていると思い込んでいた彼らこそ、神に対して盲目であった。だから素晴らしいいやしによって解放され「世の光である」主に対して。「信じます」と言って礼拝できるまでに変えられた体験こそが、実にイエスとの出会いなのだ。

「わたしがこの世に来たのは。裁くためである。こうして見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」

 ユダヤ社会から追放されても。イエスにお会いすることによって、闇から解放され、信仰の恵みをいただいた。このように、真の礼拝者になれるという体験こそが、実に今日の信仰共同体にも必要なのだ。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。