受難の主日(枝の主日)・A年(1996.3.31)

十字架の死に至るまで従順でした

無抵抗の従順(マタイ27:11-54)

 主の受難のドラマは、あらゆる侮辱、ののしりやあざけり、しかも暴力に対して一切抵抗しない姿で展開される。

 既に第2イザヤも「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた」(イザヤ50:5-6)と語る。

 罪の根源が神に対する不従順にあるので、この罪を打ち砕き解放するために、主は徹底して御父に従われた。

「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)

 だからこそ、この従順は、すべての人に救いをもたらす源となったのだ。

「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマ5:18-18)

 

十字架の神秘

 イエスのエルサレム入城を、熱狂的に歓呼の声を上げて迎えた群衆は、一変して今度は「十字架につけろ」と罵った。さらに「その血の責任は、われわれと子孫にある」とバラバを釈放することは、神に誓って正しいことであり、ナザレのイエスこそ極悪人として処刑されるべきと主張した。

 一方、ピラト夫妻はイエスが無実であることを認めながらも責任を取ろうとしない。いまなお続くこのような悪と不正、虚偽と無責任、集団の暴力などは、再びイエスを十字架に張りつけていることになる。だからこそイエスの十字架からは、悪と罪から解放する救いの恵みが流れ続けているといえよう。

しかも主に従うのも十字架の道しかないのである。

「わたしのあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マルコ8:34)

 

新たな救いの幕明け

「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」

 まさにイエスの復活は、わたしたちが同じように復活させられるためなのだ。しかもかたくななユダヤ人から救いは異邦人へと広がっていく。

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろな出来事をみて、非常に恐れ、言った。

「本当にこの人は神の子だった」

 だから、たとえ洗礼を受け、毎週日曜ミサを捧げても「、もし真に日々神に聞き従わないならば、救いの恵みから遠ざけられる。

 既に主ご自身がはっきりろ忠告された。

「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)

 今日から始まる聖週間に、主の歩まれた十字架の道のすばらしい神秘を深く悟らせてほしい。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。