年間第25主日・A年(1996.9.15)【マタイ20:1-16】

神のぶどう園で働く

 私たちはこの世に生を受けた限り、神からそれぞれ使命を例外なくいただいているのではないか。

「あなたたちもぶどう園へ行きなさい」と父なる神は一人ひとりを招いておられるはずだ。だから自分の考えや願望や計画ではなく、あくまでも神が自分に対して何を望んでおられるのか、どのようなご計画を抱いておられるのかをしっかりとわきまえることが肝心だ。

 しかも一回限りの自分の人生を受け止めて評価してくださるのも、神ご自身にほかならない。

 自己評価でもなければ、世間が認める評価でもない。

 神の国の完成のために、自分に与えられた力を十分に発揮しながら、神のみ旨の実現を目指して、神のぶどう園であるこの世で働くのが私たちの人生ではないか。

 

神の国と義を求める

 私たちの使命は、神の国の完成のために何をするかである。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)

 神の愛の支配にいかに忠実に従うかが、私たちの生き方の基本である。何が正しくて何が間違いかは、神ご自身が決められることである。

 しかし「善悪の知識の木」(創世記2:17)からとって食べてしまった私たちは、神の基準を無視して、自分の物差しで評価してしまう傾向がある。神の思いと人間の思いがどれほど違っているのかを、十分にわきまえなければならない。

「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなた方たちの道と異なる」(イザヤ55:8)

「ぶどう園の労働者」たちが、主人のやり方に対して不平を言ったのは、彼らが神のなさり方を全く理解しなかったからである。

「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも私の気前のよさをねたむのか」このねたみとは、彼らが主人のやり方を理解できない「目の悪さ」を表している。

 

役に立たない基準

 すべてを捨てて主に従った弟子たちに対する父なる神からの報いも、すべて神がお決めにになることであって、私たちの基準は全く役に立たない。

「先にいる多くの者が後になり、後にいる者が先になる」(マタイ19:30)

 私たちのかけがえのない人生の価値と評価も、神ご自身がお決めになる。だから「愚かな金持ち」のたとえにあるように、自分のために富を積むのではなく、いかに神の前に豊になるかという生き方をしなければならない(ルカ12:21)

 そのためパウロは基本的な勧告を与えてくれる。

「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)自分の生き方を改めて見直す必要がある。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。