年間第26主日・A年(1996.9.15)【マタイ21:28-32】

柔軟に考え直す心

み旨の実現を願う

「今日。ぶどう園へ行って働きなさい」

 父なる神は、毎日一人ひとりに、その日に何をすべきか、呼びかけておられるはずだ。

 しかし実際には神の御声を聞かずに、自分の思いや考えで決定し、行動してはいないか。自分が働くぶどう園が神から与えられているにもかかわらず、実際に自分がしていることは、神のみ旨に沿っていないのではないか。どこまで忠実に神のご命令に従った生き方をしているのか、見直す必要がある。

「み心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)と日々祈るのは、まず自分に対する御父のみ旨の実現を願うことにほかならない。

 そのためマリアのように、神から具体的なみ言葉をいただき「お言葉通り、この身になりますように」(ルカ1:38)と全面的にご命令に従っているかが問われる。

 

自分勝手ではなく

「兄は、後で考え直して出かけた」

 神のご計画に気づいていなければ、結局自分勝手に行動してしまうことになる。神に面と向かって「いやです」とは言わなくても、まず神に聞くことをしなければ、思い、言葉、行い、さらに怠りによって拒否していることになる。

 自分が神のご命令を無視し、結果的に逆らっていると気づいた時、素直にそして謙虚に思い直し、即座に神のお言葉通りに実行すれば良いのである。

「後悔先に立たず」といわれるが、自分の間違いに気づくたびに柔軟に考え直し、自分を改めることだ。

 

素直に受け入れる

「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じた」

 律法を忠実に守っているので、自分たちはみんなとは別だと自負していた祭司長や民の長老は、洗礼者ヨハネの説教を聞いても考え直さなかった。

「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と叫んだヨハネのことを、「悪霊に取りつかれている」(マタイ11:18)と言って、キリストに至る道に入らなかったのが、当時の指導者たちだ。ヨハネが示してくれた悔い改めを実践していなかったので、結果的に自分を変えることができなかった。

 当時、みんなから罪人呼ばわりされていた徴税人や娼婦たちこそが、洗礼者ヨハネの悔い改めの呼びかけを素直に受け入れたので、確実に神の国に入ることができたのである。

 主に心を素直に聞くことができるのは、自分の魂が打ち砕かれたときではないか。

「私は打ち砕かれて、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ57:15)

 かたくなさが打ち砕かれるとき、変えられるのだ。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。