ふさわしい実を結ぶ
イエスを殺した民
「ぶどう園と農夫」のたとえにより、預言者たちの言葉を受け入れないだけでなく、最終的には神の愛するひとり子までも殺してしまうイスラエルの罪が暴かれる。主人が送ったしもべたちを袋叩きにしたり、殺したりしたということは、旧約聖書が伝えるイスラエルの度重なる神への不忠実を表わしている。
だから神は嘆かれる。
「私がぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか。私は良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか」(イザヤ5:4)
捨てられた親石
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」
イエスの死と復活が救いの成就であり、主となられたイエスは新しいイスラエルである教会の土台石となったのである。
「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(1ペトロ2:4-5)
これこそが神のみ業であり、「私たちの目には不思議に見える」のだ。
愛のおきての実践
「神の国はあなた方から取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」
パウロの口を通して語られる救いのみ言葉を受け入れないユダヤ人に対して、パウロとバルナバは勇敢に語った。
「神の言葉は、まずあなた方に語られるはずでした。だがあなた方はそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く。主は私たちにこう命じておられるからです。
『私はあなたを異邦人の光と定めた。あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために』(使徒言行録13:46-47)
パウロたちのおかげで、今日(こんにち)私たちは信仰の恵みをいただいている。しかしどんな実を結んでいるだろうか。
「私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし実を結ぶ枝はみな、いよいよ豊に実を結ぶように手入れをなさる。私の話した言葉によって、あなた方はすでに清くなっている。あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなた方が豊に実を結び、私の弟子となるなら、それによって私の父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:2-3,7-8)
主の命のお言葉に生かされ、新しい愛のおきての実践によって実りをもたらすことが使命なのだ。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。