ふさわしくこたえる
呼びかける神
「婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」
王が素晴らしい婚宴を催して招くように、神は絶えず豊かな救いの恵みに与るために呼んでおられるのではないか。それに答えず無視したりいろいろな口実を考え、結局お断りしている。
「畑を買ったので、見に行かねばなりません。牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べにいくところです。妻を迎えたばかりなので、いくことができません」(ルカ14:18-20)
実に、信仰とは日々名指しで呼びかける神の具体的な招きにお答えすることではないか。
自分の考えや計画を優先させるならば、口実を並べ立てて結果的に神の招きを拒むことになる。
善人も悪人も
婚宴のたとえでは、既に招かれていた人は、結局招きにふさわしくこたえなかったとなっている。神の救いの歴史が示すように、確かに神の民はしばしば神に不忠実であった。
「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」(ホセア11:2)
忠実な神は決してあきらめずにさらに今度は「善人も悪人も」招いてくださる。
だからパウロは断言する。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)
救いへの招き
婚宴のたとえのしめくくりの部分で、婚礼の服を着ていない一人が、外の暗闇に放り出される。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」つまり、招きにどのように答えるかがいつも根本的に問われるのだ。
すでに主も忠告なさっておられる。
「命に通ずる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:14)さらにヨハネが見た小羊の婚宴で花嫁が着ている衣が説明される。
「花嫁は、輝く清い麻の衣を着させられた。この麻の衣とは、聖なるものたちの正しい行いである」(黙示録19:8)
この「正しい行い」とは、「天の父のみ心を行う」(マタイ7:21)ことにほかならない。
だから信仰者は生涯かけて忠実に御父のみ旨を生きるように努めなければならない。神のみ心は主のお言葉によって示されるので(ヨハネ12:49)日々主に聞くことが私たちの生き方の基本である。ペトロも勧めてくれる。
「兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするようにいっそう努めなさい。こうして私たちの主、救い主イエスキリストの永遠のみ国に確かに入ることができるようになります」(2ペトロ1:10-11)
父なる神のすばらしい救いへの招きにいかにふさわしくこたえることができるのかが、まさに私たちの最優先課題だ。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。