四旬節第1主日・A年(2020.3.1)

「誘惑に打ち勝つには」

神のことばへの不従順こそ罪の根源

 先週の司教座聖堂での灰の水曜日のミサには、予想以上に大勢参加し、洗礼志願者と共に、四旬節の豊かな恵みに共同体ぐるみで与ることが出来るよう、決意を新にしました。

それでは、まず、今日の「ことばの典礼」で朗読された聖書箇所を手掛かりに、とりあえず「信仰の原点であるみことばの大切さ」というテーマを設定して見ましょう。

では、早速、第一朗読を振り返ってみましょう。

今日の第一朗読は、聖書の最初の書物である創世記2章と3章からの抜粋であります。最初の段落で、古い資料ヤーヴェ伝承による人間の創造物語のさわりの箇所が、神をあたかも人間であるかのように描く擬人法を用いて極めて分かり易く、次のように描いております。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と。

ちなみにここで言われている「形づくる」は、陶器師が粘土を手でこねながら形を造っていくイメージに他なりません。また、「塵」ですが、赤くてとても細かい土。「鼻」は、複数形なので「その鼻に」「命の息」は、神から直接与えられ、死ぬときには取り去られるのであります。また、「エデンの園」は、荒れ野の中のオアシスのイメージで理解されており、ちなみに、ギリシャ語の七十人訳では、「パラディソス(楽園)」と訳していますが、もともとの意味は、「柵や壁で囲んだ所」を意味するペルシャ語に由来します。

次に、「見るからに好ましく、食べるによいものをもたらす」を、直訳しますと「美しい形をした、おいしい実のなる」となります。

ところで、神の園の木についてですが、「命の木」の果実を食べると、不死の命を与えられると言う考えは、当時、広く(ひろ)古代世界の神話に見られますが、旧約聖書にも数箇所で、そのことが語られております。

また同じように「善悪の知識」とは、精神的・道徳的判断力だけでなく、善と悪は、対(つい)になっている言葉で、「すべて」を、意味し、「善悪を知る」とは、「全知全能」すなわち神のようになることができると言う意味になります。

次に後半で、早速、誘惑の場面に変わります。

そこで、罪への誘惑者である蛇は、狡猾にもまず、神のことばへの疑いを投げかけます。それに対して、女は「触れてもいけない」と、自分の言葉まで付け加えて、そこでは、神のご命令を忠実にくりかえします。ところが、蛇が「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と、神のことばを全面的に否定し、誘惑の核心に迫ります。

そこで、「女が見ると、その木はいかにもおしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」と、見事に誘惑の罠にかかってしまい、おまけに、そばにいた男にも渡し、彼も食べたと言うのであります。まさに、罪の連鎖反応にほかなりません。

ここで、確認すべきことですが、「神のことばに対する不従順こそがまさに罪の根源に他なりません。」

あるいは、別の言葉では、「罪こそ神のことばへの不従順」とも言えましょう。

 

義とされていのちを得る

 次に、第二朗読ですが、使徒パウロのローマの教会への手紙5章からの抜粋であります。実は、使徒パウロが手紙をしたためるのは、自らが創立した教会とか、あるいは宣教旅行の途中で立ち寄った教会宛てなのですが、ローマの教会は、まだ一度も訪れていなかったので、この手紙は、自己紹介を兼ねた、キリスト教の教えの核心に触れる内容となっております。

ですから、今日の朗読箇所では、信仰によって義とされた者は、まさに死つまり罪から解放されることを、アダムとキリストとの比較によって次のように説明するのであります。

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。・・・一人の人の不従順によって多く人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」と。

つまり、アダムとエバの罪は、神のことばに従わないという不従順ですが、それを購うために神の独り子イエスの従順によってこそ、全人類が救われるという神の救い歴史の主題が、ここで確認されていると言えましょう。

ちなみにイエスの従順にまつわる賛美歌が、すでに初代教会で歌われていたので、それを使徒パウロは、手紙に中で次のように引用しております。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者でることに固執(こしゅう)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2.6-8参照)

ですから、イエスは、わたしたちが、イエスの弟子になる、つまり洗礼を受けてキリスト者なるために、最も根本的なことを、次のように命じられました。「わたしに付いて来たい者は、自分を否定し(捨て)、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ1624b

ここで老婆心ながら、あえて説明を加えたいのですが、「自分を捨て」と、訳してきましたが、ギリシャ語からは、「自分を否定し」とも訳すことができます。

ちなみに、今日の福音のテーマは「悪の誘惑に打ち勝つために無くてはならない武器は、みことばに他ならない。」と総括できるのではないでしょうか。

したがって、教皇フランシスコが、近年強調している聖書の大切さについての指針を、使徒的勧告『福音の喜び』から引用して、今日の説教を締めくくります。

「みことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。聴いて祝うみことばがー何より感謝の祭儀の中でー、キリスト者を養い、内的に強め、日々の生活の中で福音を真(まこと)にあかしすることができるようにしてくれます。・・・聖書の勉強は、すべての信者が参加できるように。・・・福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリック団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同での聖書の霊的読書を実践することが求められます」(174-175参照)と。

今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会においてみことばを伝えて行くことができるように共に祈りましょう。

 

※関連記事(1996年カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/02/25/000000

 

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