四旬節第2主日(2020.3.8)

「信仰の旅立ち」

主のことばに従って旅立った。


いよいよ四旬節の第二週目を迎え、わたしたちの回心の歩みを、更に充実させて行くために、ことばの典礼で朗読された聖書の箇所を、少し丁寧に振り返って見ましょう。
早速、第一朗読ですが、創世記12章で語られるアブラハムの召命について場面であります。
ちなみに、今日の箇所では、まだアブラムと呼ばれていた頃の体験に他なりません。実は、17章で、アブラムがアブラハムに改名されたことが、次のように報告されています。「あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」(創世紀17.4-5参照)と。
とにかく、聖書における改名は、その本人の役割に相応しい内容の名に神によって変えられることにほかなりません。
ですから、今日の場面では、やがて改名されるその根拠とも言える「地上の氏族はすべて あなたによって祝福される」という、まさに救いの歴史における「信仰の父」としての召命を受けたことになります。
従って、召命とは、神によって特別な使命のために呼び出される信仰体験と言えましょう。しかも、この神の呼び掛けは現在進行形なので、アブラハムのように青年時代ではなく、75歳の老人になってから初めて受ける恵みでもあります。
さらに、今日の場面で明らかなように召命には、まさに根本的な切り替えが求められるのではないでしょうか。とにかく、アブラムの場合は、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」と言う神の命令に従うことが、召命の条件なのであります。
ですから、わたしたちのキリストの弟子となる召命も、生き方の根本的な変革つまり回心が必要なのではないでしょうか。
ちなみに、イエスは、弟子たちに向かって次のように命じられました。
「わたしについて来たい者は、自分を否定し(捨て)、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16.14参照)と。また、ヨハネ福音書には、次のような句があります。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分のいのちを愛する者は、それを失うが、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至る。」(ヨハネ12.24-25参照)と。まさに、徹底した自己奉献が必要なのであります。

福音によっていのちと不死とを示された
次に、第二朗読ですが、使徒パウロの弟子テモテへの手紙二の1章からの抜粋であります。
ちなみに、この手紙の著者は、恐らくパウロ後の異邦人キリスト者と推測されます。しかも、テモテ二は、人生の最期(さいご)を目前に控えた老パウロの、愛弟子(まなでし)でありまた宣教者テモテに最後の個人的教訓、いわば、パウロの遺訓と言えましょう。
ですから、まさに信仰の恵みの核心に触れる教えを、次のようにしたためております。
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅のいのちを現わしてくださいました。」と。
すなわち、救いの歴史におけるキリストの役割は、まず、人類を罪と死から解放し、永遠のいのちを福音によって生きることができるようにするためと言えましょう。
ですから、イエスが出身地ナザレで、最初の宣教活動を始められたとき、開口一番、次のように叫ばれました。
「この時は満ちた。そして神の国は近づいた。回心せよ。そして、福音の中で信ぜよ。」(マルコ1.15参照)と。つまり、福音的生き方を全うすることにほかなりません。

ここで言われている、「時は満ち」ですが、使徒パウロによれば、「この終わりの時」と言い変えることができます。つまり、長い旧約時代が終わりいよいよキリストの時代が始まる救い時なのであります。
次に「神の国」というキーワードですが、神の愛と慈しみに満ちた王的支配という極めて抽象的な表現なであります。
ですから、特にマタイ福音書においては、神(天)の国は、すべて次のようなたとえで説明されています。
「天の国は、次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけて人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13.41-46参照)と。

わたしの心に適う者これに聞け
最後に今日の福音ですが、受難と死、そして復活の最初の予告を、弟子たちにだけになさってから丁度七日後の出来事つまり御変容の感動的な報告に他なりません。
まず、この出来事の体験者は、弟子たちから選ばれた「ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけ」であります。
舞台は高い山です。聖書で山は、神と出会う最も適した場所と言う意味で使われます。そこで、イエスのお姿方(すがたかた)、すなわち「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」と言うのであります。明らかに栄光に輝く復活のイエスを、髣髴(ほうふつ)させるお姿であります。ちなみに、ルカによれば、イエスとモーセとエリアの三人は、他(ほか)でもなく「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について話していた。」(ルカ9.31参照)のであります。
つぎに、注目すべきは、三人の弟子たちが聞いた雲に中から語られた御父の、「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言うご命令であります。ちなみに使徒パウロは、信仰の原点について極めて適切に次のように教えてくれます。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです。」(ローマ10.17参照)と。
ですから、教皇フランシスコは、次のように聖書の大切さを、近年、訴え続けておららます。「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聴き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自らを福音化し続けなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。」(『福音の喜び』174参照)と。
今週もまた、派遣されるそれぞれの場で、福音を伝えていくことができるよう共に祈りましょう。

 

※関連記事(1996年カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/03/03/000000

 

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