四旬節第3主日・A年(2020.3.15)

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」

舞台設定(4.1-6)

 ちなみに、皆さんのお手元にある「聖書と典礼」には、いつものように朗読のために段落で区切られた本分からの抜粋を繋ぎ合わせた朗読箇所に他なりあません。

特に、今日の福音は、福音記者ヨハネが伝える「イエスとサマリアの女との出会いにまつわる感動的なエピソード」なので、聖書の本分に戻り、漢詩の起承転結の組み立てに基づいて四幕でまとめて見ましょう。

それでは、早速、最初の導入つまり4章1節から6節までの、舞台設定を確認してみましょう。

4節で、「しかし、サマリアを通らなければならなかった。」と、この第四福音書だけが伝えるイエスのサマリアでの宣教活動の由来を説明します。しかも、5節で、この女と出会った井戸の歴史的説明を加えています。「そこにはヤコブの井戸があった。」と。つまり、サマリアにとっては、ヨセフの末裔が北イスラエルなので、ヤコブの井戸は象徴的な彼らの生命線と受け止め大切にしていたのではないでしょうか。

とにかく、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。」のです。

しかも、「正午ごろのことである。」と、その時刻を確認しております。

今日においても、パレスチナ地方では、最も暑くなる正午ごろには誰も水を汲みに井戸に近づくことはありません。つまり、通常、朝まず、井戸に行って水を汲み、それが足りなくなった場合には、夕方になってから井戸に行くそうです。

ですから、炎天下の真昼間(まっぴるま)に、恐れらく人目をさけてこっそりと水を汲み来たこの女の素性を、まず疑うことができます。

 

第一幕

では、早速、ここで起承転結のつまり、第一幕が始まります。

「サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。・・・するとサマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからである。イエスは答えて言われた。『もし、あなたが、神の賜物を知っており、また<水を飲ませてください>と言ったのがだれであるにかを知っているならば、あなたの方(ほう)からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』」と、全く次元の異なるお言葉を聞きます。

ここで言われている「神の賜物」ですが、「神が与えたもうもの」と言う意味で、イエス・キリスト本人を指しているという見方もできますが、神の賜物こそは人間にとって必要ないのちの水、それは身体的な渇きを癒すだけでない、その全存在の渇きをいやす永遠のいのちの水にほかならい、と文脈から読み取ることができます。

とにかく、その「女は言った。『主よ、あなたは汲む物を御持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。』と。

ここで、この女は、「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と、つまり、ヤコブの井戸から汲んだ水よりも、優る(まさ)水、女性が与えることが出来る水よりも更に素晴らしい水をイエスが与えることができるとうことが強調されているのではないでしょうか。

とにかくイエスは、答えられます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたした与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちに至る水が湧き出る。」と。

つまり、イエスが与えてくださる水とは、「その人の内で泉となり、永遠のいのちに至る水が湧き出る。」すなわち、外面的なものではなく、まさに内面的に、その人の全存在の内側から造り変えて、その中で源泉となり、泉となると言うのであります。ですから、女はいとも単純に「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲み来なくてもいいように、その水をください。あなたは預言者だとお見受けします。」と。とにかく、この女にとってそんなすばらしい水をいただくことができるならば、そして、何よりも、もう人目を避けて熱い真昼に水を汲みにくる必要がなくなると極めて現実的は発想に捕らわれています。

 

第二幕

次に、、つまり第二幕(4.16-26に、展開していきます。

イエスが、『行って、あなたの夫を呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『夫はいません』とは、まさにその通りだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは、夫ではない。・・・女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。』ここで言われている「預言者」ですが、聖書に登場する神のことばを告知する者という意味で、この女は、まさにイエスを高く評価したと言えましょう。続いて、いきなり礼拝についての話題に移ります。

「わたしどもの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。・・・神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』女が言った。『わたしはキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話しているこのわたしである。』と続いて、第3幕を省き、いきなり、つまりである4で、締めくくるります。

4は、この女がサマリア人の最初の福音宣教者になった場面にほかなりません。「さて、その町の多くのサマリア人は、イエスを信じた。・・・そして、さらに多くの人々が、イエスのことばを聴いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に救い主であると分かったからです。』と。」ここで確認すべきことですが、まさに福音宣教のダイナミックなプロセス、つまり、福音宣教者を媒介にしてイエス・キリストに導かれる段階から、自らがイエス・キリストとの出会いによってイエスご自身を直接信じる、つまり「この方が本当に救い主であると分かったからです。」という体験にまで、成長せることが肝心なのであります。今週もまた、派遣されるそれぞれの場で、イエスを紹介し、イエスとの出会いまでの道案内が出来るように共に祈りましょう。

 

※関連記事(1996年カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/03/10/000000

 

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