四旬節第4主日・A年(2020.3.22)

「神の業が現れるために」

 序幕

今日の福音も、先週と同じヨハネ福音書の9章からの抜粋でありますが、また、文脈を、便宜上、「盲人の目を癒すというしるしの展開」という主題に設定し、四幕のドラマにして見ましょう。

早速、序幕は、9章1節から5節までとなります。

そこで、「罪とは何か」という問題提起が、次のように説明されております。

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答になった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」と。

当時、ユダヤ教においては、罪の結果として禍(わざわい)いや身体の障害が生ずると考えられていました。したがって、弟子達も、このような因果応報の考え方に縛られていたので、イエスは全く新しい罪のとらえ方を宣言したと言えましょう。イエスが言われた「神の業がこの人に現れる」とは、まさに神の栄光が明かに照り輝くとうイメージを連想させます。つまり、終末或いはparousia(再臨)のイメージにほかなりません。

 

1幕(9.6-12):盲人のいやし

 早速、第1幕で、盲人が癒される場面が展開します。

「『わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾(つば)をし、唾(つば)で土をこねてその人の目にお塗り(ぬ)になった。そして、『シロアム―<遣わされた者>という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。・・・そこで人々が、『では、お前の目はどのようにして開いた(あ)のか』と言うと、彼は答えた。『イエスという方(かた)が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。』人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と言った。」

まさに、この盲人の最後のことば、すなわち「知りません」とは、この盲人は、その時点では、イエスがどなたであるのか全く分からなかったというまさに最初の告白と言えましょう。

 

第2幕(9.13-23):安息日にまつわる論争

次に第2幕において、早速、ファリサイ派の人々による安息日の掟という視点で、この奇跡についての論争が始まります。

「そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。『あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。』ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない。』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。・・・そこで、人々は盲人であった人に再び言った。『目を開けてくれたということだが、一体、お前はあの人をどう思うのか。』彼は『あの人は預言者です』と言った。」見事な、第2の告白にほかなりません。

 

3幕(9.24-34):盲人の証言

次に、第3幕で、盲人が証言する場面が展開します。

「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前に正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』・・・・そこで、彼は答えた。『もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。』そこで、彼らはののしって言った。『お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。』彼は答えて言った。『あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。』まさに、第3の告白ではないでしょうか。

 

4幕(9.35-41):ファリサイ派の人々の罪が暴かれる

いよいよ、フィナーレ第4幕となります。「イエスは彼が外に追い出されたことお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが。その人だ。』彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる。』イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、『我々も見えないと言うことが』と言った。イエスは言われた。『見えなかったのでれば、罪はかかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。』と」。つまり、肉眼でも見えないしイエスがだれであるか分からないとへりくだって素直に認めるのであれば罪はないのであります。けれども、見えないのに見えると言い張り、自分たちの考えこそが正しいと自己主張することによって、かえってイエスが見えなくなっているのではないでしょうか。しかも、ファリサイ派の人々のように、まさにイエスを拒絶することにこそ罪の根源と言えましょう。さらに実際には見えていないのに、見えると言い張ることにこそ罪があるのではないでしょうか。最後の今日の福音が編集された時代背景を振り返って見ましょう。

一世紀末のヨハネの教会の中で、イエスをメシアであると信仰告白をすることで、ユダヤ人共同体から追放されるという過酷な状況において、あるいはローマ帝国から迫害されるという危機的状況のまっただ中にあったと言えましょう。とにかく、二千年以上にわたる教会の歴史を振り返るなら、様々の困難や迫害によってこそ、わたしたちの信仰が恵みから恵みへと成長できたのではないでしょうか。洗礼志願者と共に、共同体ぐるみで信仰の原点に立ち帰り、恵み多き復活祭を迎えることができるように、今週もまた回心の歩みを充実させることができるよう共に祈りましょう。

 

※関連記事(1996年カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/03/17/000000

 

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