四旬節第5主日・A年(2020.3.29)

「わたしは復活であり、いのちである」

霊を吹き込むと、お前たちは生きる

早速、今日の第一朗読ですが、エゼキエル預言書の37章からの抜粋であります。この預言者は、捕囚民の一人として戦勝国バビロンの近郊ケベル川のほとりで、なんと預言者の召命を受けたのであります。とにかく、都エルサレムから一千キロ以上も離れた異国の地において、神の栄光を仰ぎ見ることが出来るという特別な恵みの体験者と言えましょう。(エゼキエル1.1参照)

ですから、今日の朗読箇所にあるように絶望状態にあった捕囚民を霊的に生き返らせるという途轍(とてつ)もない神の偉大な救い計画を預言することが出来たのであります。

「わが民よ、お前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。私が墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしは、お前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。」(エゼキエル37.12d-14参照)と。ちなみに、今日に箇所の文脈ですが、37章1-14節で語られる「枯れた骨の復活」からの抜粋であり、「主の手と主の霊によって連れ出される」(同上1.1参照)と言う、まさに強烈な預言体験において見せられた幻(預言者による啓示体験)に他なりません。

その幻ですが、次のようにまさに幻想的なイメージで、示されたというのであります。

「わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋(すじ)と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中には霊はなかった」(同上37.b-8参照)そして今日に箇所に続くのであります。

 

わたしは復活であり、いのちである

 次に、今日の福音ですが、福音記者ヨハネだけが伝えるイエスが、死んだラザロを生き返らせるといういとも感動的なドラマを、やはり、四幕で見事に演じております。

まず、第一幕(11.1-16参照)においてイエスの親しい友ラザロの死が、次のように報告されます。

「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。・・・』イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間(ふつかかん)同じ所に滞在された。・・・また、その後(あと)で言われた。『わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。・・・そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかった(いあ)のは、あなたたちのとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。・・・』と(11.3-15参照)。

 

第二幕(11.17-27参照)次に、第二幕に展開して行きます。

「さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロは墓に葬られて既に四日も経っていた。・・・マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。』イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世にこられるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」。

 

第三幕(11.28-37参照)ここで、第三幕に入ります。

「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。・・・マリアはイエスおられるところに来て、イエスを見るなり足元にひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、ご覧下さい』と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と」

言った。・・・」

ここで確認すべきことですが、マリアが泣き、そこに居合わせてユダヤ人たちも泣いていることに、イエスは、なぜ「心に憤りを覚え、興奮」なさったのでしょうか。つまり、イエスは何に対して憤りを感じられたのかということです。

そのときの状況からして、恐らく、すでにマリアが、愛するラザロを葬ってしまったとう現実に対してではないでしょうか。これは、マリアに代表される、人間が、自分の愛する者が死の支配に渡せれてしまい墓に葬られてしまう厳しい現実に対して憤り、興奮なさったのではないでしょうか。つまり、マリアに代表されていることですが、自分の愛する者が死の支配下に入ってしまい、結局墓に葬らざるを得ないという、いとも厳しい現実に対して怒りを感じ興奮なさったと言えましょう。

ところで、イエスも、皆と同じように「涙を流された」のであります。

 

最後にクライマックスの第四幕(11.38-44参照)に突入します。

「イエスは再び心に憤りを覚えて、墓にこられた。・・・イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日も経っていますから、もうにおいます』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれ。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆い(おお)で包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた」

今週もまた、洗礼志願者と共にイエスの復活に向けて相応しい(ふさわ)準備ができるよう共に祈りましょう。

 

※関連記事(1996年カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/02/24/000000

 

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