「マタイによる主イエス・キリストの受難」
ただ今、朗読されましたマタイによる受難劇は、いきなり、総督ピラトのイエスに対する尋問の場面から始まっておりますが、既にユダヤの最高法院でイエスは取り調べを受け「そこで、大祭司は服を裂きながら言った。『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。』人々は、『死刑にすべきだ』と答えた・・・」と。(マタイ26.65-66参照)
ちなみに、このマタイは、すでにシナゴーグ(会堂)の指導者たちとの闘いに苦しんでいたキリスト者たちに向けて書いたという歴史的背景を想定すべきでしょう。
とにかく、弟子たちに見捨てられ、敵どもに囲まれたイエスは、ここで死の宣告さえも下せるローマ総督と対決します。
この場面で、ひたすら冷静に沈黙を守られるイエスのお姿がクローズアップされます。
そこで、「ピラトは、人々が集まってきたときに言った。『どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。』人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。『あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました』
しかし、祭司長たちや長老たちは、パラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した・・・
皆は言った。
『十字架につけろ。』
ピラトは言った。
『いったいどんな悪事を働いたというのか。』
群衆はますます激しく叫び続けた。
『十字架につけろ。』
ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持ってこさせ、群衆の前で手を洗って言った。
『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』
続いて、いきなり、ゴルゴダに場面を展開させます。
「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状(ざいじょう)書き(が)を掲げた(かか)。・・・そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って(ののし)、言った。
『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい。』・・・
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
+『Eli, Eli, lema sabachthani .』
これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これ聞いて、
『この人はエリアを呼んでいる』
と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒をふくませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。他の人々は言った。
『まて、エリアが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。』
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」
暗闇が正午から午後三時まで、地を覆ったとき、イエスが沈黙を破って突然大声を上げ、最後のお言葉、eli,eli,lema sabachthaniと、ヘブライ語に近いセム語で、叫ばれます。これは、詩編22編からの引用ですが、今までいつも神が支えてくださり、聞き入れてくださったがゆえに、むしろ当惑している苦しむ詩編作者のくだりと言えましょう。勿論、その時点で、イエスが絶望なさったのではありません。なぜなら、「わが神」に信頼をもって語り掛けておられるからです。
とにかく、このイエスの最後の叫び、特にeli を誤解して、偉大な預言者、つまり貧しいやもめとその飢えから救い、また、イスラエルを危険と偶像崇拝から解放した(列王記上17章参照)エリアを呼んだと誤解されました。
とにかく、人々が、「エリアが来て彼を救いに来るかどうか」と、まさに「救う」とは、福音書の中では力強い神学的用語に他なりません。
この最後の祈りこそが、イエスの臨終の描写に決定的な影響を与えていると言えましょう。
そして、「息を引きとられた」と、生命の息は神の賜物であって、人間の創造の場面でも、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と(創世記2.7参照)伝えられております。
このように、マタイの描くイエスが、神へ「生命の息をささげて」、従順な行為のうちに死ぬことを強調しているのではないでしょうか。
「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つ(ぷた)に裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」と言うのであります。
とにかく、幕が裂けることに続いて起こる出来事は、イエスの死の衝撃を大地の奥深くへと広げます。
また「聖なる者たちの体が生き返る」とは、ユダヤの伝承に基づいて最後の時代のしるしてもあります。そして「墓が開くこと」や、生き返った人々がエルサレムに帰るというのは、聖なる者たちが生き返るというマタイの描写に他なりません。
このように、マタイは、イエスの死と復活とによって迫害されているキリスト者に希望と与えようとしたと言えましょう。
しかも、この受難劇を、なんと異邦人たちの「本当に、この人は神の子だった」という信仰告白でフィナーレを飾るのであります。
※関連記事(1996年カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/03/31/000000
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