聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサ・A年(2020.4.9)

「模範を示したのである」

神学・歴史的背景

今日のヨハネによる福音が編集された神学的意図と時代背景について、少し振り返ってみましょう。

まず、最初に他の共観福音書と比べてみますと、ミサの制定については、ヨハネ福音記者は全く語っていないのであります。そこで、この福音書が編集された時代背景が、ユダヤ教のヤムニヤ会議(西暦100年頃、旧約聖典についての決定がなされた)以後、ユダヤ教とキリスト教の決定的分離の状況において、ヨハネの教会には、シナゴーグへ戻って行く脱落者が出ていました。つまり、洗礼を受け、ミサに参加したにも関わらず、教会を離れていくという事態に直目して、恐らく福音記者ヨハネは、洗礼やミサそのものよりも、言わばミサの内実つまり本来の意義を問う必要性に迫られていたのではないでしょうか。ですから、イエスご自身が、いきなり、弟子たちの足を洗うという模範を示しことによって、ミサの本来の確認する必要があったと言えましょう。

前置きはこのぐらいにして、まず、今日の朗読箇所の冒頭に注目してみましょう。実は、共感福音書はこぞって最後の晩餐は過越の食事(マルコ14.12参照)であったと報告しているのですが、ヨハネは、「過越祭の前のことである。」と、念を押しています。

これは、恐らくヨハネ福音書が、過越の羊が、神殿で一斉に屠られる時刻と、イエスの十字架の時を一致させることによって、イエスをまさに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1.29参照)として確認したかったのではないでしょうか。

次に、「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と強調しておりますが。実は、ヨハネ福音においては「イエスの時」とは「栄光の時、つまり神が神であることが示される時」にほかなりません。

ですから、群衆に向かって「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」(同上12.32参照)と、叫ばれたように、十字架と復活とがまさに一つの出来事として「栄光の時」になると言うのであります。

確かに、弟子たちの足を洗うという行為は、当時、奴隷の役割でしたが、イエスの行為は、まさに、十字架上のお姿を重ね合わせられたと言えましょう。

ちなみにここで強調されている「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と言うくだりですが、ここで言われている「弟子」は、言語のギリシャ語では、「自分の民」を示す言葉であり、したがって「イエスを受け入れ、イエスの名を信じた者たち」を、暗示していると言えましょう。さらに「この上なく愛し抜かれた」「この上なく」ですが、「極限まで」という意味と、時間的に「最後まで」と言う二つの意味を持ち合わせているのではないでしょうか。

ですから、ヨハネ福音記者は、質的にも時間的にも極限にまで達するイエスの愛を示した上で、洗足の出来事を、そこに位置づけていると言えましょう。

しかも、十字架によって特徴づけられるイエスの時は、神のもとへ帰る時でありますが、それこそが、ご自分の民に対する神の愛の啓示であり、洗足は、その先取りにほかなりません。

また、イエスとペトロとの問答の場面ですが、ヨハネ福音のいたるところに見られるかみ合わない対話を通して真理を明らかにする、という独特の手法でありあります。ですから、洗足の意味が「後で、分かるようになる」(7節)と言うのは、12節以下でイエスが洗足の意味について語る時というよりも、16章13節で言われている「真理をことごとく悟らせる」解釈者である聖霊の到来の時を指し示しているのではないでしょうか。

とにかく、イエスは、神の子の奴隷の奉仕、愛の奉仕としての洗足が示す十字架こそが、神の救いの啓示であることを受け入れることができるかどうかをわたしたちに問いかけておられると言えましょう。

ですから、この愛の神秘を受け入れた者は、既に全身が清く、永遠のいのちに生きる者となるという主張にほかなりません。

 

奉仕の共同体である教会

 さらに、イエスは、洗足の意義を最後に次のように宣言なさいます。

「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなた方にした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と。

つまり、イエスの弟子たちの共同体すなわち教会は、まさに奉仕の共同体にほかなりません。

そのため、使徒パウロも、その手紙に中で、教会のメンバ―一人(ひとり)ひとりが、まさに奉仕者になるべきことを、次のように強調しています。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、或る人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたでのす。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適して者とされ、キリストの体を造りあげてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において、一つの者となり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれるゆたかさになるまで成長するのです」(エフェソ4.12-13参照)と。

わたしたちも、日々、より相応しい奉仕者になれるように共に祈りましょう。

 

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