年間第13主日・A年(1996.6.23)【マタイ10:37-42】

主に選ばれた私たち

ふさわしい弟子となる

 最初の弟子たちは自分たちの方から主の弟子にしてくださいと名乗らなかった。

 主が彼らをご覧になって、わたしについて来なさいと一方的にお選びになったのだ。(マルコ1:16-20参照)だからイエスははっきりと言われる。

「あなた方が私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願う者は「何でも与えられるようにと、」私があなた方を任命したのである」(ヨハネ15:16)

 従って私たちが主の弟子としてふさわしいかどうか決めることはできない。これは主ご自身がお決めになることである。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」

 主はたしかに厳しい要求をなさる。つまり肉親に対する愛を超えるほどに、徹底して自分を主にささげることができるかどうかである。

 

自分を捨て十字架を担う

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:34-35)

 まず弟子となるために、自分の我を捨て、すべてにおいて主に聞き従わなければならない。自分の思いや考えにではなく、何よりも主の命令に自分を合わせていく生き方である。

 また弟子となったために与えられる様々な苦しみ、困難、また迫害をも一つ一つ受け止めていかねばならない。このように自分を捨てて主に従うことこそ、実に自分を最高に生かす道なのだ。パウロの体験のように自分を捨てれば捨てるほど、今度は主が自分の中に入ってくださるはずだ。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)

 福音を宣べ伝える私たちを受け入れる人たちは、私たちを遣わしておられる主だけでなく、父なる神をも受け入れることになるのだ。これこそまさに宣教のつながりであり、救いの神秘でもあるが、福音を受け入れることによって、素晴らしい恵みが注がれるはずだ。

 同時に弟子たちに与えられる報いもさらに豊かである。

「私のためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29-30)

「私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」とのお言葉は弟子である私たちにおいて実現するはずだ。このきわめて逆説に満ちたお言葉を真に信じて自分を主にささげて生きるのか、改めて信仰が問われている。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。