恐れずにみ言葉を語れ
迫害を恐れるな
マタイの共同体もすでにユダヤ人から迫害を受けていたので「恐れてはならない」という主の励ましを必要としていたのだろう。神の業はかならず明らかにされていくので、たとえ神に逆らう勢力のさまざまな反対や妨害があっても、必ず救いは実現していくのだから恐れるな。だから今も主は私たちを勇気づけてくださる。
たしかに人間の目にはまだまだ真実が隠されているし、特に神のみ業は神秘として覆われている。しかし私たちは信仰の恵みによって、すでにこの神秘を見せていただいているのではないか。
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(ルカ10:21)
大胆にみ言葉を
「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたのしもべたちが、思い切って大胆にみ言葉を語ることができるようにしてください」(使徒言行録4:29)との、初代教会の祈り、今の教会祈りでもあるはずだ。
「耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と主は命じておられるのだ。人々が果たして神の言葉を受け入れてくれるかどうか心配で、つい面と向かって語ることを避け、話題を変えてはいないか。このような気遣いと遠慮は、私たちの主に対する信頼が足りないからだ。
パウロは力強く励ましてくれる。「み言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみ堪え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(2テモテ4:2-3.5)
主を宣べ伝える
「人々の前で私を知らないという者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う」
たとえ言葉には表さなくても、行動や生き方であたかも主を知らないかのように振る舞ってはいないか。
日々忠実に主に聞き従い、主の示す価値感や考え方に従って生きることが信仰なのだ。口先だけの信仰も偽善になってしまう(マタイ7:21-23参照)
イスラエルの人々がどんな試練にもひるまず、信仰を生き抜くことができたのは、信仰体験をしっかり語り続けたからだ。
「こどもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(申命記6:7)新しいイスラエルである私たちは、果たしてここまで真剣に信仰を語り伝えているだろうか。何よりもまず家庭でこそ信仰を伝え続けなければならない。そして同時により多くの人々にもみ言葉を伝えるために、洗礼と堅信を受けているのではないか。
言葉と生き方によって主を宣べ伝えよう。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。