年間第11主日・A年(1996.6.9)【マタイ9:36-10.8】

収穫は多いが働き手が少ない

 あわれみの連帯

「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深くあわれまれた」旧約から人は羊にたとえられてきたが、神が羊飼いとして養い守り育ててくださるのだ(エゼキエル34:11-22参照)

 今日(こんにち)どれほど多くの人々が神からのあわれみを必要としているか、イエスが一番よく知っておられる。羊飼いとしてのあわれみは、イエスを通じて具体化していくはずである。それだけでなく、私たちもこの神のあわれみを分かち合う使命をいただいているのだ。

 内蔵でも感じるような強烈な思いをあらわす神のあわれみにあずかることによって、実に私たちはすべての人と連帯していくのである。このあわれみの連帯の中に、着実に神の国が実現していくのではないか。ちょうどあのサマリア人が偏見と差別を乗り越えてまことの隣人になったように。(ルカ10:25-37参照)、私たちもあわれみを生きることによって、このグローバルな連帯の輪を広げていく使命をいただいているのだ。

 

働き手となる

「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とのイエスのご命令に従うことは、同時に私たち自身も働き手にしていただくことなのだ。

 十二人の弟子が主の救いの業を続けたように、今日の教会である私たちも人々の中に、特に「弱りはて、打ちひしがれている」方々のところへ派遣されているのではないか。主の働き手にしていただくのは、たとえモーセのように口べたでも(出エジプト4:10-13参照)、あるいはイザヤのように汚れていても(イザヤ6:5-6参照)、神から協力を与えられ、清められ強められるはずだ。

 

いやしと解放

 私たちの働きは、主のみ業に参加させていただくことにほかならない。いやしと解放の道具になることである。それは神の国の到来を告げ知らせることでもある。

「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と断言された主のお言葉が実現しているからだ。特に私たちのただ中に起こるいやしと解放を、あかしすることなのだ。

「私は神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたのたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)

 だから悪の力から解放されたとき、神の国が広がっていくのである。さらに私たちが聖霊のたまものをいただくなら、病める人のいやしのために奉仕できる」(1コリント12:4-11参照)

 私たちの働きの報酬は「ただで受けたから、ただで与える」ことなのだ。「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないということです」(1コリント9:18)

 この無報酬を分かち合えるのが、教会である。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。