キリストの聖体・A年(1996.6.9)【ヨハネ6:51-58】

天からくだってきた生きたパン

 

み言葉を食べる

 「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ことを学んだのが、40年間の荒野でも信仰の旅だった。だから、み言葉は聴くだけでなく、しっかり食べて自分の血とし肉としなければならない。

「あなたのみ言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたのみ言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました」(エレミヤ15:16)

最大の試練を体験したイスラエルの民の信仰の糧は、ほかでもないみ言葉であった。

「私に聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、私のもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザヤ55:2-3)

 

一致のパンを食べる

 「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」

 命の言葉によって生かされ、さらに主との一致を深めるために、主の御体と御血をいただくのだ。復活の命を生きることは、まさに主との交わりによって育てられ、強められていくことである。それだけでなく御父と御子の命の交わりの中に入れていただく素晴らしい恵みなのだ。

「私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる」

 聖体の秘跡は、私たちを父と子と聖霊の交わりによって、私たちの互いの交わりをも深めていけるように変えてくれるのである。

 この秘跡は自分と神との個人的な一致にとどまるものではない。

「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリント10:16-17)

 

自分も食べ物・飲み物

 主が自分を私たちの信仰の糧として「まことの食べ物、まことの飲み物」となられたのは、私たち自身もお互いを生かし合えるように食べ物となり飲み物となるためでもある。

 たとえば悩める友のために自分の計画を変更して時間を割いて話を聞いてあげることは、あたかも自分の時間が食べられることだ。また援助を必要とする人々に真剣に関わることによって、自分のエネルギーが飲み込まれてしまう体験となる。

 たった五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、五千人以上の人が満腹できたのはなぜか(マルコ6:30-44参照)

 今日(こんにち)、世界の各地では一時間に五歳以下のこどもたちが二千人以上も餓死していく現状がある。キリストの御体と御血によって養われるのは、実に分かち合いの輪を全世界に広げていける力をいただくことではないか。

 たとえ自分のできることはこの現実に対して、ささやかなことかもしれないが、それを分かち合うのだ。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。