年間第20主日・A年(1996.8.11)【マタイ15:21-28】

ご計画の変更を願う熱意

あわれんでください

 じぶんがどれほど神の助けを必要としている哀れな者であるか、この自覚こそが大切である。カナンの女がイエスと会えたのは苦しみの最中だった。ことが順調に運んでいる時や自分の力で物事を解決できると思い込んでいるうちは、神と出会うのは難しい。

 この異邦人の女はイエスこそが神のあわれみをかならず示してくださるお方だと信じていたのだろう。ミサのはじめに歌う「あわれみの賛歌」は、どこまで自分の魂の奥底からの叫びになっているだろうか。

 

決してあきらめない

 イエスに断られても根気強く願い続けた彼女の信仰に倣いたい。神に対する全面的な信頼があれば、どんな状況にたってもあきらめず希望を失わないのではないか。

「叫び続けて疲れ、喉はかれ、私の神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました」(詩編69:4)十二年も出血病で苦しんでいたガリラヤの女も、最後まで諦めなかったから、いやされたのではなかったか。(マルコ25:34参照)

 諦めないで神に信頼し続けられるのは、自分が弱いときにこそ神の力が働くことを体験できるからだ。現に自分の弱さを思い知らされると、惨めな思いになり失望してしまうのではなかろうか。

 パウロのような心境に達するには、自分の力に頼っている自我が打ち砕かれる必要がある。

「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら私は弱いときこそ強いからです」(2コリント12:9-10)

 

熱意にこたえるイエス

 イエスは最初カナンの女の叫びに何もお答えにならなかった。しつこく叫び続ける彼女に、今度は二度断られた。救いの業は、神のご計画に従って具体的に展開されるので、時と場所などが選ばれる。イエスがこの女に会った時点では「イスラエルの家の失われた羊」すなわちユダヤ人の救いが優先されていた。

 主の復活後、救いはすべての人々に広げられることが明らかにされる(マタイ28:19参照)

 しかし、その前に、ご計画を変更していただいたのは、まさにこの女性の熱意である。

「主よ、ごもっともです」とイエスのご意志を受け入れながら、「しかし小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と食い下がった。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」

 なんとイエスはご自分のご計画を変更なさり、彼女の願いを聞き入れてくださった。

 信仰の力強さをまざまざと見せてくれる出来事である。なりふりかまわず、決してあきらめないで願い続けたこの女性の生き方に感動させられる。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。