信仰・共同体が育てられる
イエスはだれなのか
私にとってイエスとはどのようなお方なのか。日々の生活において、自分の生き方や人生体験の中で、はたしてイエスに実際にお会いしているだろうか。主ご自身があらためて問われる。「あなた方は私を何者だと言うのか」
洗礼を受け、毎週のミサにも忠実に参加し、教会の行事にもできるだけ協力している。しかし、ものの見方、考え方、価値観、特に人とのかかわりが、イエスのお言葉によって具体的に変えられただろうか。
父が示してくださる
ペトロが弟子たちを代表して「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白ができた。しかし、まず主に近づけること自体が御父のおかげなのだ。「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれも私のもとへ来ることはできない」(ヨハネ6:44)
正しい信仰告白ができるのは、私たちの力や努力によるのではない。
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」
信仰とは、父なる神の呼びかけにおこたえすることにほかならない。この神が示される素晴らしい知らせは御子に関することだけでなく、日々具体的な促し、勧め、命令や忠告としてみ言葉が与えられるはずだ。
毎日、神の語りかけにお答えすることが、まさに信仰を生きることなのだ。
日々の祈りは、神に聞く体勢を整えるため、なくてはならない。心の受信機にスイッチを入れ、アンテナを神に向けて、チューニングすることが祈りではないか。
信仰共同体の育成
「あなたはペトロ、、私はこの岩の上に私の教会を建てる」
岩を意味するペトロというあだ名を与えられたシモンが教会の要(かなめ)として選ばれたのだ。私たちも主に対する信仰によって、信仰共同体である教会を形成するのである。
「この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては」選ばれた。尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげなさい」(1ペトロ2:4-5)
イエスのご命令は建物の建設ではなく、まさに聖霊に生かされた共同体の育成である。パウロが教えてくれるように、キリストの体としてお互い違いを認め多様性の一致を深め、弱き兄弟を必要とするかかわりを育てることである。(1コリント12:12-27参照)
さらに死に打ち勝つ力と天の国の鍵を授けられた教会は、世の終わりまですべての被造物に福音を伝えるために、全世界に派遣されている宣教共同体である。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。