自分を捨て、主に従う
主の十字架の道
主は受難、十字架上の死と復活が御父によって決定されているご自分の歩まれる道であることを弟子たちに予告なさる。当時のユダヤ人そして弟子たちにとっても、全く受け入れがたい救い主の姿である。自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれるいわば政治的解放者としてのメシアを待ち望んでいた彼らにしてみれば、イエスが予告なさった内容はあってはならないことである。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」ペトロが代表して主に反対する。
コリントの教会もまだ十字架の神秘を理解していなかったようだ。だからパウロは大胆に主張している。
「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」
だれに心を向けているか
「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず人間のことを思っている」イエスの歩みを邪魔しないで、主の後ろに引き下がらなければならない。弟子たる者は、主の道に立ちはだかるのではなく、忠実にイエスの後に従って行くことが基本である。
主に従うとは、主に倣っていつも父なる神に心をしっかり向けて歩むことにほかならない。
絶えず意識して自分の生きる姿勢を見直さないと、知らず知らずのうちにこの世的な価値観、世間体、周りの目、単なる常識など人間の思いにとどまってしまうではないか。
パウロの忠告に常に耳を傾けていなければならない。
「あなた方はこの世に倣ってはんりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ12:2)
自分の十字架を背負う
イエスについていくとは、「自分を捨て」また「自分の命を失う」ことである。まず自分の思いや考えを引っ込めなければならない。我を通すのではなく、あくまでも主に聞き従うのだ。忠実に聞いていなければ従うこともできない。主が語られた一つ一つのお言葉を真剣に受け止め、それを実践することだ。
パウロが勧めてくれるように、古い自分を脱ぎ捨て、神の似姿としての新しい自分になっていく生き方である。(エフェソ4:22-24 コロサイ3:9-10参照)
この自己否定の道こそ、主において新たな命を生きる弟子の生き方なのだ。これこそが最も素晴らしい命の道だから、生涯をかける。
※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。