年間第23主日・A年(1996.9.1)【マタイ18:15-20】

主に育てられる共同体

兄弟的交わり

「あなた方の師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタイ23:8)

 主によって私たちは皆兄弟になった。信仰共同体はキリストを中心とした家族なのだ。

「私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)

 血のつながり以上に強い信仰のきずなによって結ばれているからこそ、お互いに忠告もできるのだ。信仰に根ざした信頼感があるから、相手の過ちを戒めることができる。裁くのではなくあくまで愛をもって戒めるのである。一対一で解決できなければ、他の兄弟たちに立ち会ってもらえば良い。それでもだめな時は、教会の権威にまかせるしかない。教会はその命令に従わない者に対して、神の前で通用する権限を与えられている。

「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる」

 

共同体の祈り

「あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天上の父はそれをかなえてくださる」

共同体の祈りの大切さを、どこまで実感しているだろうか。

 私たちがキリストにおいてお互いにしっかりと結ばれているという体験が必要だ。信仰共同体が感謝の祭儀で共に祈るとき、主が私たちを一致させ育ててくださる。そのために聖霊によって主において一つになれるように祈り続けなければならない。

「御子キリストの御体と御血によって私たちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように」(ミサの第3捧献文)

 

私たちの中のキリスト

「私の名によって集まるところには、私もその中にいる」主はインマヌエル、すなわち私たちと共におられる神である。(マタイ1:23参照)

 主の働きかけにこたえ、主のお言葉を聞くために二人三人が集まるならその真ん中に主がいてくださる。

 お互い気が合うとか、仲が良いからなどの理由ではなく、キリストにひかれ主のお言葉に導かれて集まるなら、そこに信仰共同体が生まれる。この共同体は絶えず聖霊によって育てなければならない。それはお互いが人間的にも成長し、信仰において成熟していく生涯かけての歩みでもある。

「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4:13)

 私たちの共同体は主からいただいた重大な使命を遂行する宣教共同体でもある。主が共にいてくださるのは、私たちが福音を宣べ伝えているからなのだ。キリストが私たちの中に現存し、力強く導いてくださるように。

 

※1995-96年(A年)カトリック新聞に連載された佐々木博神父様の原稿を、大船渡教会の信徒さんが小冊子にまとめて下さいました。その小冊子からの転載です。